『本来の自己』を取り戻すための気づきを与えてくれる言葉

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『自己をはこびて万法(ばんぽう)を修証(しゅしょう)するを迷いとす。

万法すすみて自己を修証するはさとりなり』

道元禅師:正法眼蔵(しょうぼうげんぞう) 現成公案(げんじょうこうあん)〉

  

光と影と執着

ボクは、3浪して何とか医学部に入り、途中方向性を見失って1年休学しましたが、復帰したあとは、コツコツと勉強していた甲斐もあり、卒業試験で主席を取ったことを覚えています。しかしそれはあくまでも“”の部分です。

一方で、“”の部分も持ち合わせていました。それは、大学の精神科の講義の中で、自分は『神経症』で『対人恐怖症(社会恐怖)』なのだ、ということに気づかされていったのです。

猛勉強して1番を取ったのも、満たされることのなかった親からの承認欲求を、好成績を取って注目を引くことでしか満たされる方法がなかったのだなぁ、そこまでありのままの自分を認められることがなかったのだなぁ、と今では冷静に分析することができます。

日本人の多くが抱える、「他人よりも上に立っておきたい」、「他人よりも遅れをとってはいけない」という考えに、当時のボクは強迫的に支配されていたような気がします。

 

森田療法と禅の思想

そして精神科医になった後は、その『対人恐怖症』がもたらす苦しみの現実に直面させられる機会が激増し、次第にボクは、仕事ができなくなって、追い詰められていきました。  

 

このままでは嫌だ。

必死の思いで本屋で本を探しました。

 

精神科医である、故・鈴木知準先生が書かれた「神経症はこんな風に全治する」という『森田療法』の本に出会い、わらをもすがるような思いでボクは、東京都中野区にあった『鈴木診療所』に行くことに決めました。

 

 「とにかく不安は不安なりにそのままにして目の前の必要な動きの中に、すっとでも、よろよろとでも入っていく、という経験を積み重ねていくうちに、不安は不安でそれを引きずらない自由な心が展開する。それが『あるがまま』の体得である」

その体得を目標に、『鈴木診療所』に3か月半入所しました。

 

今思えば、ボクは、幻想にしがみつく『*理想の自己』に対して強く執着していたことにより、強い不安・恐怖という「迷い」が生じ、自由さを失って身動きが取れなくなっていたのでした。

*『理想の自己』というのは、簡単に言えば、「親」が求める育てやすい理想的な良い子のことです。またこの「親」は、そのまま「学校」や「社会」にスライドし、「学校」や「社会」が求める理想的な人物にもなります。

 

そのような森田療法には、禅の思想と共通する部分があるということ、その共通点についてなどを鈴木先生の講話で聴いていました。

 

 

気づきを与えてくれる道しるべの言葉

冒頭に書いた、

『自己をはこびて万法を修証するを迷いとす。

万法すすみて自己を修証するはさとりなり』 

という言葉は、その禅(道元禅師)の言葉ですが、鈴木先生の講話の中で取り上げられていたかもしれませんが、この言葉を本当の意味で理解していったのは、もっと後でした。

節目節目ボクに大切な気づきを与えてくれる道しるべの言葉です。

 

「自己を運びて万法を修証する」

とは、自分の立場から、あれこれと思案して、物事を何とか整えようとすることです。

わかりやすく言えば、目の前の状況や他人の考えを自分の都合に合うようにコントロールしようとすること、

これが「迷い」だとしています。

 

ボクでいえば、 『理想(偽り)の自己』を防衛するために自己の内外をコントロールしなければ!と必死だった自分。

内面のコントロールとは、理想的な自分に近づけたり、理想的な自分を保つために、自分が受け入れられない不快な考えや感情、体験などを否認したり、抑圧したりすることです。

外面のコントロールとは、親兄弟の関係の中で抱えることとなった、低い自己価値・無力感・劣等感・自己否定感を、「他人と比較して優位に立とうとする」「常に主導権を握ろうとする」などして心を安定させようとすることです。つまり、自己をとりまく人や環境が自分に及ぼす力や状況を、自分で何とかコントロールしようとする自己防衛機制です。これらは悲しいことに、与えられた関係や環境に適応していくために身についてしまったサバイバル・スキルでもあるのです。

 

「万法進みて自己を修証する」

とは、逆に外の世界のほうが自分に向かってきて、言わば外界と自分が一体となっていくことです。

わかりやすく言えば、自己をめぐる人や環境などの、外界から働きかけられる大きな力によって本来の自己に目覚めること、

これが「悟り」だとしています。

悟り」とは「自由に流動する心」を意味します。

 

 

人間の悩みの多くは、この「迷い」が原因となっているというわけです。

 

こういうふうにしてボクは、この言葉をボクなりに解釈してきました。

さらに、この言葉につながるボクの経験について記したいと思います。

 

 

『理想(偽りの)自己』と『本来の自己』

ここでいう自己とは「我見我欲」のことです。

我見我欲」とは何か。

ボクが『理想自己』と呼んでいるそれが「我見我欲」と一致するのではないかと考えています。

 

理想自己』とは、親の掲げる理想に合わせるために外面のコントロールと内面のコントロールを身につけながら適応している、作り上げられてきた自我=『偽りの自己』のことです。

負わされたトラウマが大きいほど、防衛のために身につけざるを得なかったサバイバル・スキル(『防衛自己』)が強化され、『理想自己』を堅く守ろうとします。

そして、迷いを起こさせる強い執着が生まれます。

 

自分の力でコントロールをしようとすればするほど『本来の自己』から遠のいていく、迷いに陥っていくのです。

 

しかし、そういう理想とする自分(『理想自己』)が『自分』だと思い込んでいるわけだから、そうじゃない方向(本来の自己が目指す方向)に行こうとすると、不安になったり脅かされたりして、やはり理想の自分(『理想自己』)にしがみつくのです。

 

外の世界からの大きな力の働きかけ

先日投稿した記事「『人生を幸福にする』選択のために手放すものとは」の記事にも書きましたが、

anohi.hatenablog.com

「勤務医を辞める」「精神科医を辞める」選択をするまで、ボクは『医者という理想自己』にしがみつき、『万法を修証(自己をとりまく状況をコントロール』して、迷いに陥っていたわけです。

そのボクにきっかけを与えてくれたのが、息子の「行ってほしくない」という言葉でしたが、この言葉が『万法(外の世界からの、大きな力)』に当たるのだと思うのです。

外の世界からの、大きな力がボクに働きかけ、「手放すことで『本来の自己(自由)』を取り戻していくこと」を促してくれたと捉えています。

この息子の言葉は、のちの「精神科医を辞める」につながっていくのですが、『本来の自己(自由)』を取り戻していくために必要な安心・安全な環境を整えるためのお膳立てでもあったのです。

 

ですから、子どもの気持ちや願いに真摯に向き合って方向性を決めるのは、子どもへの尊重でもありますが、大事なことは、その現象自体に大きな意味があるということ。

そうすることが自己(『理想自己』)へのしがみつきからの解脱になるということで、大きな力の働きに身を解き放つという意味なのです。

 

点と線

物事を選択、決断する瞬間は、点のように見えますが、線でつながっています。

線は個々の歴史であり、その歴史の中には、他人が覗き見ることができない困難や苦悩があります

結婚して新しい家族が増えれば、今度は、家族という単位の歴史を刻んでいきます。

違う人間同士で構成された家族。

それぞれ違う感性、違う個性、違う人格であるからして、互いを思い通りにコントロールすることはできません

そのような家族に、転機が訪れる時が『』であれば、その前に潮の流れが変わる

点と点をつなぐ線には、「気づけ」、「気づけ」と促す『きっかけ』がいくつも存在しているのです

それが人間を超えた『万法(ばんぽう)』という大きな力の働きだと思うのです。

 

最後に

どのような選択にも間違いも失敗もありません。

大事なことは、選択の結果を誰かのせい、何かのせいにしないこと

自分で自分の決断に責任を持つこと

これを肝に銘じて過ごしています。

 

最後までお読みくださりありがとうございました。

『人生を幸福にする』ために、子育て中の夫婦が共有すべきこと

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ママはいつもイライラしているね、怖いね

いきなりですが、仕事から帰ってきた夫が、子どもにこんなことを言ったら、ママはどう思うでしょう。

 

あえて、思いを極端に代弁してみます。

 

パパはいいわよね。子どもとの関わりでイライラしそうなことは回避できるもの。

嫌なことせがまれたりしたら『仕事で疲れてる』で回避。

それって、子どものことで都合の悪い部分は私に押しつけてるってことなのよ。

仕事には収入があるから価値が認められるのよね。

私はいくら家事や子育てしてもお金にはならない。

価値どころか、当たり前だとしか思われてない。

私だってイライラしたくない。イライラしたくないのにイライラしてしまう自分や状況から逃れられないのよ。

この苦しみわからないでしょ。

罪悪感、自己嫌悪、自己否定感、劣等感・・・、ごまかしごまかしやってるけど、すごくみじめになる時がある。

どんなに努力しても当たり前、できなければ『できないママ』。

男の人は回避できて、ちょっと子どもをあやして、時々家事やって、「やってあげたよ、助かったでしょ、良いパパ、良い夫だろ?」

どんだけ価値や承認奪っていくの?

わかってほしいよ・・・

 

この不毛感は理解してもらえていない・・・そう感じているママがどれだけいらっしゃるでしょう。

伝え方、ノウハウ、いろいろ工夫したとしても、潜在意識下に植えつけられた、

男は仕事をしてお金を入れるのが当たり前で権利も立場も強い

という考えは、多くの夫婦間に大きな壁となって立ちはだかっています。

ママが仕事して収入がある場合でも、「男が優遇されている」が根底にあることを実感しているママも多いのではないでしょうか。

 

【目次】

 

仕事には就かず、家で子育てをする専業ママは楽で良い?

仕事には就かず、収入のないママは、そういう点で非常に立場が弱いですよね。

専業ママは楽? 暇? 本当にそうでしょうか。

ボクたち人間の多くが、どれほど「承認」、「価値」が認められることを欲していることか。

専業ママは、その「承認」や「価値」が認められにくいどころか、子どもの存在によってあぶり出される「自分の嫌な部分」と否応なしに向き合わせられます。

存在意義を見失い、毎日を憂鬱に過ごしているママたちもたくさんいるのです。

 

ボクは、専業ママの「価値」があまりにも疎かにされていることについて、そして、実は専業ママには、何よりも尊い価値があることを客観的な立場から発信したいと思っています。

 

ママの価値

お母さんの子宮の中で育ち、お母さんから産まれ、お世話をしてもらう赤ちゃんは、お母さんとは切っても切れない存在、そう思いませんか?

赤ちゃんにとって、どうしても必要な存在は、お母さん

それは、人が自己に目覚め、成熟し、自立するまで、常にその人の根底や潜在意識の中で欲する存在であり続けます

お母さんとは、それほど重要な存在なのです。

 

でも、子育て中のママとしては、「正直重たい」そう思うことだってあるのではないでしょうか。

 

ママと一緒にいたい。ママがイライラしても、怒っても、怖くても、今はママと一緒じゃないと耐えられない

 

このような、子どもの『言葉にならない心の叫び』、プレッシャーですよね

 

つまり、専業ママは、そのプレッシャーに追い立てられながらも、子どもの「ママと一緒じゃないと耐えられない」という思いを満たしてあげていることになるのです

 

子どもは夫婦ふたりでつくった大切な生命。

その、子どもの生命を育むという責任を担い、子どもと自分と向き合いながら過ごす時間の価値は、外で働いて収入を得てくることとは違う、尊い価値があるのです

 

もちろん、ママとしては、子どもとの関わりが濃厚で、負担も大きい分、「嫌な自分」があぶり出されて、自分の存在価値など中々実感できないかもしれませんが、それはそれとして、まずは子どもさんの重要な欲求のひとつを満たしているという事実は尊いものであると認識してほしい、そう思います。

 

ちなみに、「嫌な自分」があぶり出されるのにはこんなきっかけがあります。

・子育ては思い通りにいかない

・子どもの姿に、ママ自身の幼い頃の自分(インナーチャイルド)が重なり、ママが置き去りにしてきた子ども時代の心の痛みを感じている

 

我が子を通して起こる、小さい頃の追体験

つまり、我が子を通して、小さい頃の自分の体験や感情の再現が起こっている、自分が親からされてきたことを追体験しているのです。

 

例えば、子どもが甘えてきてイライラさせられる時、ママの子ども時代に刷り込まれた

わがままを言ってはいけません。わがままを言う子はダメな子

という禁止命令のスイッチが無意識に入り、人格がママの親に入れ換わったような口調で我が子を叱ってしまうというもの。

親とは圧倒的に母親であることが多いのですが、このように無意識の中で、

母親の立場で考える」「母親と同じ考えにする」など、

自分の中に母親と同質のものが存在(母親化)していることに直面した時に、本当の自分が母親に同一化していることの嫌悪拒絶を感じるのです。

 

問題はその時に、見たくないものとして否認していくか、

罪悪感を抱き「今のままではダメだ」と思ってプラスにならないものをちゃんと見極めて排除しながら負の連鎖を断ち切っていくか、なのです。

 

ママそのものの自分らしい生き方を取り戻していくことの大切さ

自分に受け継がれている母親の有害性を正確に選別し、そのためにもたらされた悪影響を、「自分がいけなかったのではなかった」と知る過程をしっかりと踏みながら、母親から精神的に分離(自立)していくということが大切なのです。

 

つまりこのような現象こそ、我が子を育てるという営みの中で、親との関係で身についた、悪影響を与えている

『“子どものため”を名目として、“しつけ”や“指導”という言葉で正当化されやすいコントロール(*心理的虐待)』について見直していくこと、

それによってママ自身の心(感情)やママそのものの自分らしい生き方を取り戻していくことの大切さを常日頃から教えられている、ということを意味していると考えるのです。

(*心理的虐待については、「しつけ」「教育」の後遺症 :さいとうカウンセリングルームブログをご参照下さい)

 

仕事への回避

ちなみにボクの体験の中で実感したことですが、

我が子を通して直面させられる自分の過去と向き合うのが嫌だから、仕事へ意識を向けて回避させていたことがあります。

例えば、ある時は子どもが自分の欲求やニーズを理解してもらえず泣きやすかったり、ある時はこちらの言うことを聞かなかったり。

それは、実は子ども時代の自分が親に訴えても受け止めてもらえなかったことの再現が目の前で起こっているようなもの。

そのような子どもに対して、ボクもまた親と同じような言葉や表情・態度で子どもをコントロールしてしまうかもしれない。そうなることの恐れから、子どもとの関わりを回避させていた、

と思うようなことがあったのです。

 

このような自分への気づきにより、多くのパパ(日本の多くの男性)に仕事への回避が起こっていることがわかると同時に、回避できやすい立場であるパパの場合、子どもの頃の本当の自分(インナーチャイルド)と出会って、置き去りにしてきた本当の欲求や感情を取り戻していくことがいかに困難かということにも気づくきっかけとなった、そういう体験でした。

 

つい言ってしまう、“親と同じような” 言葉

では、ついつい言ってしまう、“親と同じようなこと”にはどういう言葉があるでしょう?

 

『片づけなさい』

『早くしなさい』

『全部食べなさい』

『きちんと挨拶をしなさい』

『自分のことは自分でやりなさい』

『甘えない』 『我慢しなさい』

『女の子・男の子らしくしなさい』

『お友だちや下の子に貸して(譲って)あげなさい』

『子どもには関係ないこと。大人の話に首をつっこまないの』 などなど、

 

いかがですか?

ママは大変だから言ってしまう。

母も大変だったのだなぁという、お母さんの立場や気持ちがわかる。

しかし、子どもには子どもの気持ちやペース、意志、欲求、そして決定する権利があるのです。

果たしてそれは、親が子どもだった自分に言って良かったものかどうか、その時の表情や態度は子どもだった自分の心に悪影響を与えるものではなかったか、親の都合が優先されるような、親の価値観の枠に当てはめさせるような、または、親にとっての育てやすい子に仕向けるような心理的なコントロールはなかったか、そこをしっかりと吟味することが大切なのです。

 

子どもが親に与えてくれている 、成熟・自立のきっかけ

繰り返しになりますが、

・子育ては思い通りにいかない 

・子どもの姿に、ママ自身の幼い頃の自分(インナーチャイルド)が重なり、ママが置き去りにしてきた子ども時代の心の痛みを感じている

 

実は、このふたつは、ママのインナーチャイルドの傷が回復し、ママらしい本当のママに目覚めさせ、成熟・自立させる(特に母親から精神的に分離させる)ための重要な気づきを与えてくれています。

本当の自分に目覚め、成熟・自立したひとりの人間になるためには、「自分の嫌な部分」と直面する過程を通るのです。

  

イライラしてしまう自分と向き合い、原因を知って、私は変わる

子どもたちはママにそれを求めているのではないでしょうか。

子どもたちはママ(パパ)がそれに気づいてくれる可能性がある限り、ママやパパが困るようないろんな問題や症状を呈して、きっかけを与え続けるように思います。

 

子どもを尊重すればするほど、子育てはうまくいかない。だから手放すこととは?

そして、そのような子どもの問題や症状に含まれる『言葉にならない心の声』と誠実に向き合えば向き合うほど、子育ては思い通りにいかないことを実感する思います。

 

つまり、子どもの欲求や気持ちを優先しようとすることで、というか、すればするほど、ママは他のことができなくなるわけです。

だからコントロールしなくちゃ大変!となります。

圧力をかけることは良くないと考え、おだてたり、褒め言葉が用いられたりする誘導操作的なコントロールになっていくこともあるのです。

 

コントロールしないとなると、子育て以外のことをかなり手放さなければならなくなってきます。 

anohi.hatenablog.com

これが先ほどの、ママらしい本当のママに目覚め、成熟・自立することに深く関係するのです。 

 

手放されるものとは?

深層心理の深いものもありますが、身近なことでは、例えば、

 

「部屋が散らかって掃除も行き届いていないが子どもが小さいうちは仕方ない」

「買い物、料理、家事、思うようにできない時はしない(手抜きする)」

「今は人づき合いを避ける(自分がつくった家族を優先するという意味で)」

「両家の身内との関わりで、イライラの原因になることを負わない」

 

などなど、できなくていいことしなくていいことを書き出しておいて、夫婦で共有し、それが許される環境を整えておく

すると少し楽な気持ちになれるし、自分と子どもの存在を大事にしてあげている、という実感が、自信や自己肯定感を強めてくれるはずです。

 

さいごに

子どもを産み育ててくれた奥さんに感謝

お父さんが引退後にそう言ってくれるのもいいかもしれませんが、せっかくだったら子育て真っ最中の今、夫婦の心が、尊敬や感謝で満たされ、通じ合えると、

人生ずいぶん得をする

そういうように思えます。 

 

長文になってしまいました。

さいごまでお読みくださりありがとうございました。

『人生を幸福にする』選択のために手放すものとは

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人生は選択の連続』と言われます。

小さなことから大きなことまで、ボクたちは確かにいつも『選択』していますよね。

選択』は恐れによる防御や現状維持を目的としたものではなく、できるだけ『人生を幸福にする』ことを目的とした、建設的な『選択』ができると良い。

そう思っています。

 

 

ボクはこれまで、『自分にとって重要だ』と思っていたいくつものことを手放してきました。

 

沖縄への移住を考え、決心したのは、13年前のこと。

薬物療法中心の精神科医としての生き方に限界がきて、

医者以外の生き方で第二の人生を豊かに過ごそう

夫婦でそう考え土地探しを始めたのでした。

 

結婚して、過去に何度か仕事上、精神面で追い込まれたことをきっかけにうつ状態になったりしたこともあり、妻は

医者を辞めること

に大賛成だったのです。

 

当時勤務していた地から、何度も沖縄へ足を運び、土地が見つかるまでは半年以上がかかりました。

それから家が建つまでは1年はかかっていて、その間は勤務医を続けました。

 

無事家が完成し、引っ越し。

夫婦でカフェを開く夢を携えて、新しい生活が始まりました。

 

ただ、ここではまだ、勤務医のすべてを手放してはいませんでした。

軌道に乗るまでは、収入が途絶えないよう、それまで勤務していた九州の病院へ月に一度、数日間の非常勤医師としてパートに行くようにしていたからです。

 

結局、カフェを開くには至りませんでした。

そして、パート勤務暮らしは5年続きました。

その間に、クリニックを開き、子どもが生まれ、生活は大きく変化。

クリニックの内容は薬物療法を行わない精神療法のみの自由診療でした。

はじめは受診される方はまばらで、生活を維持するためには、クリニックを運営しながらのパート勤務がどうしても必要でした。

医者をやめて第二の人生を豊かに過ごすつもりで移住したはずが、どっぷり精神科医人生のまま。

 

生活は、パート勤務の数日間のための「体調管理」「精神」「台風など天候の把握(飛行機を利用するため)」が最優先で中心、心が休まる時がなく、いつも何かに迫られているような、息苦しい日々の中にいました。

 

きっかけは息子のことば

2歳になるまで、息子は「ママさえいれば何も問題ない」というママっ子だったので、いつもボクを笑顔で見送り、笑顔で出迎えてくれていました。

それが、3歳前後の頃だったか、ボクと別れたあと、「パパはどこ?」と妻に聞くようになりました。

そして、「パパ、行ってほしくない

そう言うようになったのです。

 

その言葉、その表情は、ボクの胸に突き刺さりました。

辞める』という選択肢が目の前に提示されたのです。

 

パートを辞めると、いよいよ安定した収入は失われる。

クリニックは開いていたものの、まだ軌道に乗ったとは言えず不安定。

でも、ボクは、やっぱりこの、パートへの依存に支配された生活を続けていては、自分がダメになる。

そう思って、『辞める』選択をしました。

 

パパ、辞めるんだって。ずっとおうちにいられるんだって。もうバイバイしなくてよくなるんだって

そう伝えられることがとても嬉しかった。妻は言いました。

 

いつも一緒

 

3歳の息子にとって、それはとても大切なことでした。

そして、ボクにとっても、妻にとっても、それは、それまでの人生で欲しくても得られなかった、「お互いの存在や心が何よりも大切にされる温かい家庭」を得たような、有難いものでした。

そういえば、テレビでこんな番組を観たことがあります。それは、厳しい海で仕事をするひとりの漁師さんを追ったものでした。

漁師さんには3歳の息子さんがいました。

行ってほしくない」「パパといっしょにいたい

そういう息子さんの訴えに、心が締めつけられ、漁師さんは船を売り、代々続いていた漁師をやめたのです。その選択の決断を行うまでの、この漁師さんの苦悩が当時のボクには手に取るようにわかったのでした。

 

行ってほしくない」「パパといっしょにいたい

この言葉を、子どもはどんな思いで口にしただろう

その思いを受け止めてもらえたか、もらえなかったか、そのことがその子の心や人生に与える影響はきっと大きいに違いありません

 

それを見て、ボクは改めて思いました。

親が困ることであっても、思ったこと、感じたこと、願いを、子どもが言葉にできる家庭がいい

子どもの願いを受け止め、真摯に向き合う親でありたい、と。

 

  • 収入を失うことを恐れて選択することで失うもの。
  • 自分と家族にとって最も大切なもののために、失うのが怖い・難しいと思うものを手放すことで得られるもの。

 

失うものと得られるもの、その選択は自分にかかっている

どちらが人生を幸福にするかは、やはり後者なのではないでしょうか。

 

このブログを始めた今のボクは、自分の意志による選択でなかった『医者の衣』を脱いだボク。

勤務医だけではなく、クリニックをたたみ、開業医も辞めています。

しかし、セラピストとしての仕事を手放すつもりはありません

なぜなら、このブログの「『病は気からは本当なのか?」の中でもお伝えしてきたように、人の抱える症状や問題の多くは、精神科医でなくても、ご本人の明確な意志と覚悟があれば、トラウマセラピーによって改善・解決に導くことは可能だと確信できたからです。

anohi.hatenablog.com

それ以上に、トラウマセラピーによる自分自身の体験と、自分の身の丈に合った安心・安全な衣を選択していっていることの影響と変化は、大きな自信につながっています

したがって現在は、医者という『医療者』ではなく、いちセラピストとして、これまでの自分の経験と知識を生かしながら、自己の成長と精神的な成熟・自立を求めるクライアントさんと向き合っています。

 

これからも、選択に迷ったときは、『恐れ』に支配されるより、不安定に見えても、『人生を幸福』にする選択をしていこう

そう思うこの頃です。

【一休み雑記】『ママ、怒らないで。』出版までのエピソード

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こんにちは。

今日は、今年(2017年)3月7日に出版した本、『ママ、怒らないで。』の、出版までの道のりについてお話しようと思います。

 

これまでも綴ってきたように、ボクは勤務医を辞め、「薬に頼らない、精神療法を行う、自由診療」のクリニックを開いていました。

 

 通常行われているのが、健康保険を提示して行う『保健診療』で、短時間の精神療法と薬の処方がセットとなっているのが一般的です。

そんな中で、ボクが自由診療を選んだのは、薬物療法による対症療法ではなく、心の病や悩み苦しみの根本的な解決を目的としていて、ひとりの患者さんと向き合うには、当時は2~3時間どうしても必要だと考えていたからです。(ですから物理的にも精神的にも1日2組が精一杯でした)

 

そして、『症状=言葉にならない心の叫び』と捉えていたボクにとって、『心の叫び』を薬で鈍らせて抑えることは避けたい

このような理由で、自由診療を選択したのでした。

 

開業から1年後に子どもが生まれましたが、子どもの存在や子育ては、ボクの診療にも、大きな変化を与えました。

医者と患者さんの関係

から、対等な立場で自己の成長・精神的な自立を目的としてカウンセリングを行なっていく

セラピスト‐クライアント関係

へと変化していったのです。

 

子どもの立場、子どもの目線、子どもの気持ちというものが、ボクや妻の中の『子どもの頃の自分(インナーチャイルド』を呼び覚まし、その存在や心の傷を認知させてくれたからです。

 

インナーチャイルド、そして子どもを救うことはできないか

この頃からインナーチャイルド』は、ボクたちのカウンセリングにおいて、切っても切れない存在なのです。

 

言葉にならない心の叫びは、インナーチャイルドの声でもある

ママやパパのインナーチャイルドが叫び声をあげる時、それが子どもにうつったかのように、子どもが不安定になるパターンがある

それを掴みました。

 

子どもには何も問題はない

今苦しんでいる人たちは、子どもの頃に苦しみの種が植えつけられている。そこからの回復がどれほど大変なことか。それならば、なおのこと、今“子ども”を生きている子どもたちが、苦しみの種を植えつけられることから救えないだろうか?

子どもたちを救うには、まずママ(パパ)と、そのインナーチャイルドが救われなければ!」 

そうしてようやく子どもを守れる(予防できる)

 

 

「これ、絶対本にしなくては」 

日々の生活やクライアントさんとの対話からそれを強く実感するたびに、

これ絶対本にしなきゃ

と妻。

妻が草稿、ボクが中身を詰め、妻が整える・・・ふたりで協力して原稿を増やしていきました。

確か、息子が3歳前後だったので、2012年のことだったと思います。

それから企画書と原稿を、ある出版社に郵送しました。

当初は、いっぺんに何社にも送るのは失礼かと思い、1社に送ったら1か月~2か月待つ。

連絡がなければこちらから問い合わせていました。

 

『得手不得手がありますが、うちはこのジャンルは不得手なので』

『子育て中のママたちは忙しいので手に取ってもらうのも難しい』

『誰か有名な方をご存知ないですか? そのような方の推薦がないと今は売れないもんですから』 

断られる理由のほとんどはこういうものでした。

なかなか道が開けない・・・

落ち込むことも何度もありました。

 

希望の光が差し込む

そんな中、「まずはブログというものを始めてみよう」ということで、

2013年11月、「さいとうメンタルクリニック(現:さいとうカウンセリングルーム)」のブログを開設し、主に「ママと子どもの心のつながり」に関する記述を掲載していきました。

途中更新が途切れた期間もありますが、約4年間、発信をしてきたことになります。

 

その間も、数社に原稿を送っていました。

そんな中、「女性の社長さんがひとりでされていて、育児教育専門の本を出版する出版社があるけど、ここすごく気になる」と妻が言いました。

風鳴舎』さんです。

当時4歳の息子も、「ここ絶対(原稿を)送った方がいい」と教えてくれます。

 

原稿を送る前だったか後だったか、電話で問い合わせた時に、風鳴舎の社長、青田さんとお話した中で、あることがとても印象的でした。

『風鳴舎』という社名は、娘さん(当時3歳)が教えてくれたもの。

自転車に乗せている時、「何が良いかなぁ」と社名を考えていると、

ふうめいは? ふうめい。絶対うまくいく

と娘さんが言ったのだそうです。

それに漢字をあて、『風鳴舎』になったとのこと。

 

そして、ボクたちの企画に対しては、

そういう本をつくらなければいけない気がする

大手にはできない、うちだからできることがあるはず

という力強い言葉をくださったのです。

 

動き出した出版計画 

実際に転機が訪れたのは、それから1年近く後の2016年4月

その後進展しない出版計画に対する不安を吹き飛ばすようにボクが没頭して書いた原稿を改めて送ったところ、「このままではまだ本にはできないが、何とか工夫して、ママたちが手に取ってくれる本をつくりましょうか

というお返事をいただくことができたのでした。

 

6月に東京へ行き、初顔合わせと打ち合わせ。

その後、内容が大きく変更になったり、絵本部分やイラストを配置して、忙しいママが少しでも読みやすく、愛着が感じられる本にするための工夫が次々に提案され、施され、の繰り返し。

当初は9月出版を目標にしていたのが、12月に延び、それでもまだ変更・工夫が繰り返され、やっとゴールが見えたのは1月でした。

 

本の完成

2月末、見本が届きました。

 

ホッとした

無我夢中で走り続けてきて、箱を開いて完成した本を手に取って、まずはホッとした。それが正直な気持ちでした。

それから後は、常に手の届くところに置き、目を通すたびに愛おしく感じられるようになっていきました。

 

『ママ、怒らないで。』に込められた願い

現在、『ママ、怒らないで。』を読んでくださり、カウンセリングに至った方々が、全国にいらっしゃいます。 

それぞれが、それぞれの親子関係、環境、生い立ちの中で負わされた心の傷や植えつけられた苦しみの種、身につけたサバイバル・スキルを抱え、それらから回復・解放されたいと願いながら読んでくださった感想を、このように述べて下さっています。

 

「まるで自分のことが描かれているようで驚いた。自分の気持ちが代弁されていた」

「私は悪くなかった、それがわかって救われる思いだった」

「わが子には、自分と同じ痛みを味わわせたくないから私は変わりたい」

「子どもを愛おしいと思える時が増えたのが良かった」

「心の傷が痛んで本を閉じてしまうこともあるけれど、これは私が一生持っておかなければならない本だと思う」

 

自分とインナーチャイルドを粗末にしたくない。

結婚した方であれば、伴侶とつくった大切な家庭を粗末にすることなく、丁寧に、誠実に、幸せな家庭・絆を育んでいきたい。

そう願う方に読んでいただきたい本です。

 

Amazonの紹介ページをはじめ、掲載された新聞記事のリンクを貼りますので、よろしければぜひ、ご覧ください。

最後まで読んでくださりありがとうございました。

 

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ママ、怒らないで。不機嫌なしつけの連鎖がおよぼす病

ママ、怒らないで。不機嫌なしつけの連鎖がおよぼす病

 

 西日本新聞(6月4日付)

www.nishinippon.co.jp

神奈川新聞(6月5日付)

saitomental.ti-da.net

 熊本日日新聞(7月6日付)

this.kiji.is

【一休み雑記】美ら海水族館だけじゃない。本部町のおすすめスポットを紹介します。

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                                     「備瀬のフクギ並木にて」

 

連休、いかがおすごしでしょうか。

休日は【一休み雑記】をお届けします。

ここ、沖縄県本部町には、美ら海水族館で有名な海洋博公園があり、常にたくさんの観光客が訪れます。

ボクたちも、ここに移住してくる以前から、本部町にはよく訪れていました。

今日は、これまでに訪れたことのある、本部町のおすすめ(お気に入り)スポットを紹介します。

 

「スポット」

*詳しい情報を得たい場合は各タイトルをクリックすると詳細ページへリンクします。

備瀬のフクキ並木

海洋博公園のすぐ近くにある集落です。

防風林として植えられたフクギが立ち並ぶ並木がいかにも沖縄らしい風情が漂うところ。

散策するだけでも癒されますが、並木のトンネルの向こうに海が見えた瞬間や、木々の緑から、エネルギーが満たされるような感覚を味わっていました。

  

本部町営市場

テレビで本部町が紹介される際、ここはよく出てきます。

 本部町の中心に位置していて、時代とともに空き店舗が増えていったのだそうですが、かつての賑わいを取り戻そうと、若い人たちが中心となって、カフェや雑貨店などの店舗をオープンさせ、活気が戻りつつある、そういうスポットです。

本部は「かつお」で有名な町でもありますが、これが本当に美味しい!

鮮魚店で「かつおのたたき」を購入して宿で味わう。そんな日もあると楽しいのではないかと思います。

 

海洋博公園

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子どもが生まれて今年で8年、海洋博公園には何度も訪れています。

園内は、電気遊覧車(有料)で移動できるのですが、子どもが小さかった時は、これに乗るのが楽しみでした。さすがに夏休みは混むので、気持ちよさは期待できないかもしれませんが、広い園内を満喫するには欠かせないアイテムです。

  • 美ら海水族館:人気、知名度のとおり、迫力ある大水槽の世界に見入ってしまいます。
  • オキちゃん劇場:健気でかわいらしいイルカたちのショーは、いついっても観覧者でいっぱいです。ちなみにこちらや「マナティ」「うみがめ館」は無料なので、水族館を見る時間がないけどショーは見たい、という方にはありがたい施設です。うちも、年間パスポートを購入する以前は、これらを満喫するだけの時もけっこうありました。
  • 熱帯ドリームセンターここは、息子が大変気に入っている施設ですが、メインの蘭以上に、「鯉のえさやり」「池でのトンボやおたまじゃくしなど生き物観察」に熱中し、大満足なのです。あと、スタンプラリー(簡単です)でもらえるシールがとても素敵です。
  • 海洋文化館プラネタリウムが素晴らしいのですが、展示ホールが意外にすごいです。息子と「モアナ」を見ましたが、それを見た時「そうだ、また今度海洋文化館の展示ホールに行こう」と思いました。
  • 特に、太平洋を描いた床地図と壁面を利用した大型映像は感動と癒しがありました。
  • ちびっことりで小さいお子さんから12歳まで、からだを使って元気いっぱい遊べるアスレチックは、大人気です。
  • 夕日の広場:水族館エリアからはだいぶ離れていますが、雄大な景色と広々とした空間、子どもがいつまでも楽しく遊べる「アクアタウン」もあり、穴場です。 

 

もとぶ元気村

ここは様々なレジャーが楽しめる宿泊施設ですが、ボクたちは、「イルカを見る」それだけのためによく訪れていました。

イルカと触れ合うなどのアクティビティが豊富な施設で、飼育員さんやお客さんがイルカと触れ合う様子を間近で眺めることができるので、涼しくなった夕方に行っていたのです。

岸壁からは、カニや魚影、時には美しい色の熱帯魚が見えることがあり、生き物探しが好きな子どもさんが楽しめるスポットではないかと思います。

 

田空の駅 ハーソー公園

湧き水、池、鯉と水のエリアの他に、広々とした公園のエリアがあり、ヤギや馬、牛、琉球などの動物たちもいます。

食堂があるのですが、とても美味しいです。素朴で、味がすごく良い

本部から今帰仁へ向かう道路沿いにあるので、時間帯が合えば食事休憩の候補におすすめです。

 

 伊江島

本部港からカーフェリーで30分程度でいけます。

4月のユリ祭り前後の時期が、花いっぱいでおすすめなのですが、ブルーの美しい海をフェリーで渡り、気軽に離島の雰囲気を味わえるポイントです。

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                                          「沖縄の民家」

 

「食」 

ドライブインレストランハワイ

ステーキソースがとても美味しいので、ボクたちはステーキのセットを食べますが、沖縄料理、和食、洋食、何でも揃い、大人も子どもも満足できるレストランです。

本部港のすぐ近くにあり、建物もいいかんじです。

 

蒼蒼家

ボクたちが移住前に通った、福岡出身のご夫婦が営むカフェです。移住の際も大変お世話になりました。

人生の楽園』にも出ていらっしゃいます。

パンやケーキ、クッキーまでもがすべて手作りで、これがすごく美味しいのです。

パスタやピザ、ベーグルも頂いたことがありますが、サラダも含め絶品です。

ちなみに、一軒家のこのカフェは、ご主人を中心に、ご夫婦でリフォームされた建物で、DIY好きの方や興味がある方にとっても楽しめる、くつろぎ空間ですよ。

 

花人逢

本部町の超有名店ではないでしょうか。

ピザが絶品なだけでなく、絶景が人気のお店です。

初めての方にとっては、道がわかりづらいので、H.Pで下調べをしていかれた方がいいです。

また、混んでいることが多いので、待ち時間などは電話で確認していかれるのもいいかもしれません。

 

紀乃川食堂

とっても素朴な佇まいの食堂で、品数がとても豊富です。

ここで絶対おさえたいのは手造りの『じーまーみ豆腐』。

これはもっちもちで、材料の落花生の風味がいきた絶品です。

『じーまーみ豆腐』好きの方はぜひ

 

オールデイダイニング「シリウス」 | 沖縄 ホテルオリオンモトブリゾート&スパ

ホテルバイキングでのランチも好きなので、たまにいろんなホテルに行きます。

ここのバイキングは、知り合いが「すごく美味しくてびっくりした」と言っていたのを聞いて行ったのがきっかけ。

品数豊富で、本当にどれも美味しいです。

チョコレートファウンテンやブルーシールのアイスなどもあり、子どもも楽しめて満足できます。

 

 新垣ぜんざい

夏の暑い盛りに頂くここのぜんざいは格別です。

本部にこられたらぜひ!といいたいところですが、行列やお休みなど、思い通りにいかないタイミングが結構ありますので、下調べと覚悟をしっかりされたうえで赴きましょう。

なお、持ち帰りもできるので、店内にこだわらず、持ち帰りにして涼しい車内で食べるのも手です。本当に美味しいですよ

 

 

「ビーチ」 

瀬底島

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                                  「瀬底島:瀬底ビーチと水納島

本部と瀬底島を結ぶ瀬底大橋を渡っていきます。

車で5分程度でぐるっと一周できる小さめの島

ビーチは白い砂と青いグラデーションが美しい透明の海、癒されます

 

エメラルドビーチ

海洋博公園の一部です。

施設が充実しているので、安心して快適に利用できますし、海も3つのエリアに分かれていて、それぞれの特徴に合わせて楽しめます。

 

ゴリラチョップ

ゴリラがチョップをしているような岩」があることでゴリラチョップと呼ばれているこの浜は、本部港のすぐ近くの道路沿いにあります。

比較的岸に近いところでたくさんの熱帯魚が見られるらしく、季節を問わず、いつもダイビングやシュノーケリングを楽しむ人々を見かけます。

近年、駐車場やシャワー、トイレの施設ができたので、快適に利用できるようになっています。

 

さいごに

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                                         「本部町の夕日」

本部町は、夕日が美しいことでも知られています。

空気が澄み切った日は、夕日が沈み切る瞬間、緑色の閃光が見えることがあります。

グリーンフラッシュといいます。

グリーンフラッシュが見られると、幸せになれるとか?

また、朝夕、通り雨によって虹が出現することもよくあります。

空と海、緑と花と風と光・・・感性が刺激される本部町の紹介でした。

 

いかがでしたでしょうか。

本部町へお越しの際は、ご家族みなさんで満喫できるといいですね。

お付き合いくださりありがとうございました。

自己嫌悪は後回しにしてやるべきこと

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そういうとこ、お母さんと同じだね

傷ついたり、固まったり、歪んだり、濁ったりした心が、純粋で生き生きしたものに変わっていく過程で行われる『膿(うみ)出し』の最中、夫婦同士でその相手に投げかけられることの多い“爆弾ワード”です。

 

この言葉が放たれると、内部で、激しく抵抗したい気持ちが湧き起ります。

 

負の感情を生み出す言動や態度、子育て、ネガティブな思考や反応のパターンなどが『身内の誰か(の嫌悪している部分)と同じ』である、

それを指摘されると、とても痛くて嫌な気持ちになる。

そういった経験はありませんか?

 

ボクはありました。

 無意識のうちに妻より優位に立とうとしたり、妻や子どもより自分の都合を優先してしまったり。

 

ボクたちはみな、無力で自分ひとりでは生きられなかった子ども時代を経て大人になりました。

その、幼く無力な時代は、親からの愛情と安心を強く求めるがゆえに、「親はきっと愛情と安心を与えてくれる存在」と親を理想化し、きっとそうにちがいないと自分に思い込ませて生活するところがあります。

この、「親子」「上下」、「支配と依存」の関係の中で、親(身内)のプラスの部分もマイナスの部分も、必然的に子どもに刷り込まれていくものです。

 

時代も影響していますが、父母世代が育った時代は今と比べて、カウンセリングだとか、心理面で自分の心と向き合うといったことは、あまりありませんでした。

そのため、多くの子どもたちは、「親からの自立」や「適応」、「社会性」を過剰に求められて厳しく育てられ、肝心な愛情や安心はそっちのけにされて、寂しさ、不安、恐怖を抱えて成長しなければならなかったのですね。

そうしなければ、お母さん自身も「ダメな母親」とレッテルを貼られてしまう、という現実も後押しし、子どもたちは、それに見合うスキル(サバイバル・スキル)を必死で身につけてきたのです。

 

現在、自分を嫌悪する理由のひとつとなっている、負の感情を生み出す言動や態度、子育て、ネガティブな思考や反応のパターンなどが『身内の誰か(の嫌悪する部分)と同じ』であることは、気づかないうちに刷り込まれたことのひとつであり、このようにして身につけたスキルのひとつなのです。

 

問題は、今の自分の苦しみや生きづらさの原因となった、親子関係を認識していく際に見る必要のある『親自身の問題』や『親への嫌悪』が、『自分も同じ』『だから言えない(直視できない)』とブレーキがかかってしまうことです。

 

父母世代は、心を見つめて、親子関係を見直すために、自分が変わろう、などという発想に至ることは、ほとんどありません。その理由のひとつとして、上下の関係の中で自分の欲求や感情を抑圧してきた父母は、子どもより常に上に位置して(優位に立って)おかなければ心が安定しないことが挙げられます。子どもと肩を並べられそうになると自分の立ち位置や存在自体が脅かされるのです。

 

しかし、娘(息子)世代は、自分次第でこれからいくらでも変化していくことができます

心が純粋で、生き生きした自分を、これからの長い人生の中で取り戻していくことができるはずです

ですから、今は、自分の欠点や、自分を嫌悪することで、真実を見ることへの『ブレーキ』をかけるのをやめて、

幼い自分にとって、親との関係性や親の言動、態度、価値観、信念、信条がどう影響したのか、

つまり、『親の毒』『害』『悪影響』についてと、そういう親に対する嫌悪を、はっきりと認めることが大切です

 

それが、「自己嫌悪は後回しにして、まずはやるべきこと」なのです。

『病は気から』は本当なのか?

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病は気からという言葉は本当なのでしょうか?

本当だとしたら、次のような症状(病)には、どのような『気』が影響しているのでしょう?

『気』とは、「意識」「感情」「素質」「性格」のこと?

今日は、そのことについて考えを巡らしていこうと思います。

 

 

まずは思いつく限りの様々な症状を挙げます。

 

精神的および身体的症状(*注1)

 自己嫌悪、無力感、情緒不安定、憂うつ感、気分の落ち込み、悲哀感、絶望感、意欲が湧かない、頭が働かない、決断ができない、自分の力が出ない、人と会うのが億劫、感情が生き生きと感じられない、自分が自分でない感じ、生きていくことがつらい、つらかった過去を想起する(フラッシュバック)、対人緊張、対人恐怖、動悸・めまい・呼吸困難・発汗・震えなどを伴ったパニック発作、洗浄癖・確認癖 など

 不眠、倦怠感、疲労感、窒息感、喉や胸の詰まり感、食欲不振、消化不良、胃部不快感、吐き気、腹痛、下痢、便秘、喘鳴(喘息性)、肩凝り、身体各部の疼痛(片頭痛などの慢性頭痛、生理痛、腰痛、下肢痛など)、知覚異常、耳鳴り、難聴、、チック(まばたき・顔しかめ・口ゆがめ・首振り・肩上げ・咳払い・鼻鳴らしなどの突発的で反復性の常同的な運動あるいは発声)、どもり、頻尿、じんましんなどの皮膚症状 など

 

行動化

自傷行為リストカット・壁を殴る・頭を壁にぶつける など)、家庭内暴力、キレ、DV、いじめ、虐待、万引き、窃盗、家出、不登校、引きこもり、過食症などの摂食行動の異常(自傷行為、いじめ、虐待、窃盗、過食症などは嗜癖としても扱われている) など

 

嗜癖(しへき)・依存症

アルコール依存、薬物依存(鎮痛剤・精神安定剤睡眠導入剤を含む)、ギャンブル依存、ネットやケータイ(スマホ)依存、買い物依存、仕事依存、恋愛依存、ブランド依存、肩書(経歴)依存、上昇志向依存、良い子(良い人)であることへの依存、自身より弱者とする相手への『共依存』 など

 

たくさん羅列しましたが、これらはすべて、『症状』と捉えられるものです。

なのでつまり、「病は気から」でいえば、これらのことにはすべて、何らかの『気』が原因になっている、ということになります。

 

『言葉にならない心の叫び』

ボクが医者という仕事に責任を負いすぎたのは、こういった『精神や身体の症状』に対し、薬だけに頼って症状を抑えることでは、『治している』、という感覚を持てなかった、ということからでした。

そこで、精神や身体の症状は、『言葉にならない心の叫び』、そう考えて、その『心の叫び』を聴き、その声に誠実に向き合って、問題に対処していくことを目的としたカウンセリングを行ってきました。

『心の叫び』はその方の人生をくつがえすようなものであることも多いものです

『症状』を治すためとはいえ、そういう大きい課題をクライアントさんに直面化させる仕事は、とても荷が重いもの。そのような責任を負っていたというわけです。

 

ボクも『病(症状)は気から』というのは合っていると思っていて、その『気』というのは、わかりやすく言えば『抑え込んだ負の感情』のことです。

抑え込んだ負の感情が、症状(行動化、嗜癖・依存症などの問題を含んだもの)に置き換わって表れている』というもの。

負の感情とは、不満・イライラ・怒り・敵意・恐れ・不安・悲しみ・寂しさ・空虚感・嫉妬・劣等感などの、一般的にはあまり歓迎されない感情のことです。

つまり、症状(病)は『その負の感情を何とかしたいという心の叫び』である、と考えているのです。

  

心の病は、脳の病気?

心の病については、脳科学などを用いた説明を聞くと、『脳』が起こす病気と捉えます。

では、その脳の病気を発症させる最たる原因は? ということになります。

その原因として、よく『ストレス』が取り上げられます。

『ストレス』という言葉は病気を引き起こす(つまり脳の病気を発症させる)ものとしての認識が高い言葉ですが、やはり原因は『ストレス』なのでしょうか?

 

精神医学では、脳の中のセロトニンノルアドレナリンドーパミンなどの神経伝達物質のバランスの乱れによって様々な症状・症候が起こっているものと考えられています。

そして症状・症候の特徴によって診断名(うつ病社会不安障害パニック障害強迫性障害など)がつけられ、症状や状態に見合った処方が行われていくというのが通常です。

ですから治療の中心は薬物療法で、薬を投与することによって、脳内にある神経伝達物質のバランスを整え、症状を抑えていくものです。しかし薬物療法は対症療法に過ぎないため、ずっと薬を飲み続ける必要性が出てきます。薬により症状を抑えられるかもしれませんが、新たに薬への依存症を生み出すことになりかねないのです。

果たして神経伝達物質のバランスが乱れる原因の多くを“ストレス”という言葉でひとまとめにできるのものなのでしょうか?

“ストレス”という考え方は、あまりにも漠然としていて、具体的に焦点が当てられたものでないため、根本的な解決が得られることは難しいでしょう。

 

症状の根本原因とは?

私は、その人本来の欲求や負の感情を閉じ込めて(抑圧させて)しまうものすべてが、症状(行動化、嗜癖・依存症などの問題を含む)を起こさせる根本原因と捉えています。

つまり、その人本来の欲求や自然に湧いた負の感情の抑圧によって、症状(行動化、嗜癖・依存症などの問題を含む)が起こっているというものです。

 

その根本原因とは何かというと、知力・腕力・言語力とも大人にかなわなかった無力な

①『子ども時代に受けた“虐待”などによるトラウマ』

②『子ども時代から当たり前のように存在する上下(支配・被支配)の関係性や、その中で身についた習慣』

この2つの影響が特に大きい、ということを掴んでいます。

つまり症状は、このトラウマと支配・被支配関係の中で起こったことの、『後遺症』なのです。

 

“虐待”には「身体的虐待」「性的虐待」「ネグレクト」「心理的虐待」がありますが、

①の“虐待”の中でも、“虐待”としての認識はおろか、“問題”として意識されていることが非常に少ないのが、

しつけ」や「教育」の中に隠れている

  • 『“子どものため”を名目とした、親の都合による価値観の一方的な押しつけ』
  • 『暴力・圧力を伴った親の有害な言葉や態度の有無を問わず、親の都合で考える常識の枠に当てはめさせるための、無意識的な誘導操作を含めたコントロールです。

これらは「心理的虐待」に含まれるものです

 

そして、②の習慣の代表が、

その子本来の欲求や負の感情を抑圧させてしまうものです。

その習慣にもっとも影響力を与えているのが、判断力のまだ低いとされる子ども時代に刷り込まれている、

『「こうあるべき、こうしなければならない」という儒教的・道徳的な「教義」や「規範」』です。

これは特に厳格でなくても、そこに子どもの忠誠心を利用した、理想像(イメージ)への誘導が存在するということです。

例えば、子どもを褒めることに誘導が加わると親や大人のイメージ通りになるように仕向けるという意図が加わることになりますから、これが日常化した場合、子どもの主体性(自分の意志・判断によってみずから責任をもって行動する力)を奪っていくという意味で、これも「コントロール」になります。

 

“良い子”(人)は「育てやすい子」「扱いやすい人物」

その「教義」「規範」とは、例えば、

子は親に従うもの

我慢強い子になりましょう

感情的になるのは良くありません。もっと大人の振る舞いをしましょう

自分のことよりも、ほか人のことを考えましょう

目上の人に逆らってはいけません

わがまま(自己主張に値する)を言ってはいけません

社会に早く適応し、誰からも認められる人間になりましょう」 などです。

 

これらは、親や社会が、「育てやすい子」や「扱いやすい人物」を求めてしまうことが大きいようです。

「親が育てやすい子」「社会が扱いやすい人物」とは、反発しない手のかからない聞き分けの良い親や社会にとって都合の良い子(人)

いわゆる“良い子(人)”です。

(詳しくは「しつけ」「教育」の後遺症 :さいとうカウンセリングルームブログをご参照下さい)

  

“良い子(人)”に身についた感じ方・習慣 

・傷ついているのに、何ともないフリをする

・人前で感情的になることは、恥ずかしいことだと思う

・自分のことを周りの人がどう思っているのか気になる

・相手に嫌われるのが怖いので、相手に合わせて自分の正直な気持ちが言えない

・「我慢することは良いことだ」と今もそう思う

・自分のことより、周りの人のことばかり考えてそっちを優先してしまう

・相手の役に立つことができなかったり、期待に応えることができないと罪悪感が湧く

・人前で良い人、良い子を無意識にアピールしてしまうことがある

・人から認められたいという思いが強い

・目上の人の考えや感じ方、価値観と違うことを選ぶことへの罪悪感がある

・人から言われたことを、いつまでも気にしてしまう

・過剰に適応しようとしてしまう

・嫌なことに『No』と言えない

・自発性、自主性、主体性が育っていない

・集団に属していないと不安になる

・感情をコントロールできない時がある

・自分の感情や本当の欲求がわからない

・いつも人よりも上にいたいために、勉強するなど何か努力していないと不安になる

「本人の性格やものの考え方の問題」と捉えられがちな、これらの習慣も「押しつけ」「コントロール」「刷り込み」による『後遺症』と言えるのです。

 

予防と改善

問題は、これら①②の根本的な原因によって、 持って生まれた子どもの個性(独自性)や気質が育たず、子どもの『主体性』が奪われ、子どもの本当の欲求や自然に湧いた負の感情を抑圧させてしまう、ということです。

しかも、ひとつひとつの「押しつけ」や「コントロール」ないし「刷り込み」が、“子どものため”を名目として、「しつけ」や「教育」という名のもとに行われるだけに、子どもにとっては【抵抗不能】であり、それらによって【子どもの心(脳)への侵入が許され、子どもの心(脳)が、親や大人の考えに支配されていく(大人化されていく)】という問題もあります。

 

そうして、このような子ども時代を経てきて大人になったボクたちが、精神的・身体的症状または行動化または嗜癖・依存症などの問題を抱えている、というわけなのですね。

 

ですから、次の世代の子どもたちに、症状(病)の種が植えつけられないようにする、という予防の意識とともに、ボクたち大人が症状から解放されるためにも、

「しつけ」や「教育」、「教義」や「規範」が与える、隠れたネガティブな影響という問題の本質(本当の原因)に光が当てられ、見直されることが重要なのです。

 

症状は本人だけの問題(原因)ではない 

私は、症状については、ご本人だけの問題として捉えるということをしません

前述したように、

①『子ども時代に受けた“虐待”などによるトラウマ』と

②『子ども時代から当たり前のように存在する上下(支配・被支配)の関係性や、その中で身についた習慣

が種となって生じているもの として、子ども時代の、重要な人との関係性の背景や、その中の隠れた問題にも焦点を当てることを大切にしています。

つまり症状(行動化、嗜癖・依存症などの問題を含む)は、

①´『“虐待”などによるトラウマの後遺症=複雑性PTSD』、

②´『関係性の中で身についた習慣からもたらされているもの

と捉え、そのうえで

・今も浮遊し続ける過去の体験(複雑性PTSD)や、ネガティブな影響が与えられてきた関係性を、きちんと過去のものにする、

・ その人たちとの関係性や、その人たちとの間で身についたマイナスに働いている習慣を自分にとってプラスになるものに、自分らしく生きるためになるものに換えていく 、

症状や問題の根本的な改善につなげられるよう、これらに取り組むことを大切にしているのです。

(セラピーについては『PTSD』 ~虐待による後遺症~:さいとうカウンセリングルームブログをご参照下さい) 

 

(*注1)前述した症状の中には、脳・神経やその他の臓器・組織の形態的異常によって起こっていると考えられるものもありますが、それらの形態的異常によってもたらされる身体的な病気においても、病気という文字が示しているように、その人の持つ「素質」に加え、「感情」・「意識」などの『気』が、病に与える影響は大きく、中でも、その人が身を置いている「負の感情を抑圧させやすい環境」または、その人に身についた「負の感情を抑圧してしまう習慣」が、病に与える影響は大きいと考えます。

 

書籍の紹介

ボクたちの著書、『ママ、怒らないで。』には、この記事のような内容について、対話形式を取り入れながら具体的に説明を施しています。

現在の生きづらさや対人関係、子育ての困難さの原因を求め、生い立ちの中の心の傷と向き合っていくセラピー本です。よろしければ合わせてご覧ください。

ママ、怒らないで。不機嫌なしつけの連鎖がおよぼす病

ママ、怒らないで。不機嫌なしつけの連鎖がおよぼす病

 

【夫婦】心を向けて 。

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親から満たしてもらえなかった心の飢え』が、子育てや夫婦、対人関係に影響し、うまくいかない現実に葛藤を抱えている、という方がたくさんいます。

 

わたしは(ボクは)どうでもいい存在なの?

「ねぇ、お母さん」

「ねぇねぇ、見て」

「ほら、これすごいんだよ」

「今日学校でね」

「お母さん、わたし本当はね・・・」

 

「お母さん?」

 

あなたが小さい頃、お母さんやお父さんへの働きかけに、お母さんやお父さんはどのように答えてくれましたか?

「なぁに?」

「あら、これどうしたの?」

「へぇ、こういうのがあるんだねぇ、驚いた」

「うんうん、それで、○○はどう思ったの?」

「大丈夫、お母さん待ってるから、一緒に考えるから言ってごらん」

 

受け答えには、その人の向き合う姿勢が表れますよね。

 

・心ごと向いて感じようとしている

・(いつも)心を向けてくれない

 

子どもはそういうことは敏感にキャッチしていて、

心の交流

つまり『共感』が(いつも)得られないとなると、とても寂しく感じます。

 

お母さん、お父さんにとって、わたしは、ボクは、

「どうでもいい存在?」

「必要のない存在?」

「邪魔な存在?」

「いなければいい存在?」

極端かもしれないけれど、親から存在価値が認められていないという感覚を抱き、こういうふうに感じて、ずっと自分の価値を認めることができないままの大人である人は、少なくありません。

 

伴侶に心が向けられているか

ある時妻が、 「あなたって私に関心がないよね。私が何を考え何をしているか。子どもとどう過ごしているか。全然見てない気がする。心を向けてほしい」 と言いました。

具体的には、 「遊びやふれあい、お世話をママばかりに求める子どもの要求に応え、自由な時間や休まる時がないことに圧迫感を感じている。そのプレッシャーは男の人にはわからないものかもしれない。

わかるんだったらきっとねぎらいの言葉があるんだろう。『大変だったね、お疲れ様』とか。

男の人は仕事で疲れたといってゆっくり休まる時間が持てるし、それに何の罪悪感もいらない。

あなたがクライアントさんのことで責任や、家計を支えるという責任を負って苦労しているのはわかる。でも大変なのはあなただけじゃない。私の大変さも、私を見て、感じてほしい。

関心を、心を向けてほしい。」

というものでした。

 

「わかってるつもりだけど・・・」最初はそう思いました。

しかし、仕事(以前はクリニックで医者)による疲労やストレスを抱え、クライアントさんの人生に対する責任を負っているという感覚を無意識に持ち、妻の存在や家事育児の価値よりも、自分の責任の方の価値が優先されていたのです。

育児をしながらの家事や買い物がどれほど大変で価値のあることか。

それは、奥さんの立場になってやってみないとわからないところが大きい。

自分は妻の大変さを理解しているつもりだったが、それでは足りなかった。

無自覚に刷り込まれている男女の役割に対する差別観に驚きました。

 

優位に立つことでの安定

その価値を認めてしまうと不利になる、すなわち、自分の中の、妻より上に立っていることでの安定(優越による安定)が脅かされる。そういうものが、日本の男性には代々受け継がれているのではないでしょうか。

価値が対等だと、「権限」や「自分の思い通りにできる時間・空間」をうまく行使できなくなりますから。

つまり、それを維持するために権力(家庭内の地位)と経済力を行使したパワーゲーム(主導権争い)に至るのには、こういう背景があるわけです。

 

大切なことは、妻が求めていたのは「権限」や「自分の思い通りにできる時間・空間」というものよりも、「」。

「関心」「共感」という、存在価値を認めたうえでの『心の交流』でした。

 

良い意味での親代わり

親子と同じですね。

伴侶が“親”と置き換わる部分や場面は多々あります。

良くも悪くも、伴侶は “親代わり” の存在となることがある。

親から満たされなかったものを、伴侶に、過剰に求めすぎれば、それは重荷や束縛となって関係に悪影響します。

一方で、親から満たされなかったことが何なのかをわかったうえで、伴侶や我が子との間では『心の交流』を大切にして、夫婦で、家族で満たし合う

そういう家族関係が築かれれば、『満たされなかった心の飢え』を満たしていくことだってできるのです。

 

丁度いい加減

「満たされたい」にしがみつき、盲目になって求めては、心が離れる。

「相手を満たそう」と、過剰に介入すれば、心は離れる。

だから『心を向ける』そして『感じる』、『相手の立場に立つ』。

 

丁度いい加減が、夫婦の心の交流には必要です。

 

「心を向ける」は、どんなことよりも尊い価値がある

ちなみに、子どもの存在や心に寄り添い、それを感じ、しっかりと共感しながら『子どもを育てる』ということは、どんな仕事よりも価値がある

今のボクはそう思っています。

その価値を認めることは、“今は伴侶との心の交流の取り方がわからない”という場合でも、まずは優先することを心掛ける必要があることだと思っています。

なぜなら、我が子の視点に立って我が子に心を向けることは、子どもの頃、親から満たされなかった自身の心の飢え(インナーチャイルド)を満たしていくことにもなり、それによってもたらされた“調和の波動”が夫婦関係の回復につながっていくという現実を見てきたからです。

 

一見、生産性がなく、誰も見てくれない

そういう孤独感を抱えて子育てしなければならないのでは報われません。

 

とんでもない!

どんな仕事よりも、稼ぎよりも、

『子どもの存在と心』に心を向けることがどれほど尊いことか。

 

夫婦も同じかもしれません。

どんな仕事や稼ぎがあっても、『伴侶の存在や心に、心を向ける』がなければ、相手はきっと尊敬できないし、価値も認めきれない

 

与えることと、受け取ること、どちらも同じだけ、大切なのですね。

【結婚】『自分優先』の生き方は『家族優先』でもっと良くなる

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人の目や意見、空気・雰囲気、ペース、圧力に影響され、

自分のことより相手や周りに合わせて生きること

他者優先の生き方』とします。

 

一方で相手や周りに惑わされず、

自分の気持ちや意志を最優先にして生きること

自分優先の生き方』とします。

 

どちらで生きるのが楽でしょう。

どちらで生きていきたいですか。

“自分を持っている人”“自分の意志を貫ける人”を羨ましく思う一方で、そうすることの難しさも実感するのではないでしょうか。

 

「社会の声」と「心の声」

人はひとりでは生きていけないんだよ

心を開いて誰とでも打ち解け合えなければならない

人や周りに合わせないと何事もうまくいかないよ

 

後者を選ぶと聞こえてきそうな「社会の声」

 

それに対し、

ごまかしがきかない人は、物事を深く考え、意識は真実に向かいます

なので、上記のような社会の声にも、心が「うん」と言いません

それが葛藤であり、生きづらさです。

 

欲求や感情を閉じ込めた分の反動

他者優先の生き方』をしてきた人たちは、自分の欲求や感情が取り残されて、自分の欲求や気持ちに気づいてあげられなくなってしまっています。

また、欲求や感情を閉じ込めやすく、閉じ込めた分の反動で、それを吐き出す方向へと働くために、自分の思いや我を通そうとするなど、『他者優先の生き方』をしてきた人たちほど、「自己中心的」な振る舞いになったり、キレてしまったりしがちなのです。

 

心の自己主張 

ひとりで生きていくわけではない。ただボクは、選ぶことが必要なんだ

心を開く相手はわたしが選ぶ。相手に感じる違和感にふたをしてつき合うのは自分にも相手にも不誠実ではないか」

「打ち解け合わなければという観念に縛られ、できないことで罪悪感を抱えてしまう。そんなの心がダメになる

はっきりした意志や目的を共有できる人や物事であれば、自然と協調できると思う。そうでなければ無理に合わせることでつらい思いをする

 

と、心は言いたがります。

 

 

マイノリティ(少数派)は「生きにくい」?

こういう、『自分優先の生き方』、今の時代よく見聞きするようになりましたし、それを選んでいる人も結構いらっしゃるのではないかと思います。

 

社会全体で見ると、「自分勝手」「常識はずれ」と見られがちなところもあり、まだまだ少数派の部類と言えます。

ですから、良い意味での開き直りができていなければ、いろいろと「生きにくい」と感じることも多々あるとは思うのですが、少数派が増えるのは非常に良い傾向だと思います。

 

守るべきものは『自分』から『家族』へ

そこで思うことがあります。

ここからは、“『自分優先の生き方』をしている自分”をイメージして読んでいただければと思います。

 

多くの人は結婚をします。

子どもが生まれると家族が増える。

守るべきものが『自分』から『家族』へと拡大する

すると、『自分優先の生き方』にメンテナンスが必要になってくる。

つまり、

『自分優先』から『家族優先』へのシフトチェンジが必要だということです。

『家族』というのは、自分伴侶子ども、この核家族で捉えます。

“自分が選んだ家族” 水入らずです。

この『核家族』を最優先にするのです。

しかし、家族となると、それぞれに気質・感受性・気持ち・考え・希望があって、それぞれ違うこともたくさんあります。

家族が増えれば増えるほど、それをまとめるのは難しくなりますよね。

 

「嫌だ」と言われたら困ることと向き合う

休みの日の過ごし方

実家との関わり方

学校や地域の行事への参加

引っ越し(転校)

親の就職や復職、転職

 

などなど。

どれも、誰かひとりが「嫌だ」と言えば、リーダーは困ります。

でも、「嫌だ」を深く見てみると、そこには

人や周りを優先しようとすることで失う大切なことがある

というメッセージだったり、

それを選ばせられることで、ボク(や家族の誰か)がダメージを受けてしまうんだ

などという心の叫びがあったりします。

 

あたたかい家族の絆

だから、どんな意見もまずは、できるだけ受け止めてみる。

そして話し合う。

どの選択が『家族優先』になるかを見定めて決定する。

 

家族で決めたことは、場合によっては相手や社会の期待に沿わないこともあるから、貫くのが困難に感じることだってあるかもしれません。

けれど、その家族にとって必要な選択を貫こうと、家族がまとまることで、子どもや伴侶は「わかってくれている」「守ってくれている」という安心と信頼を抱きます。

それが『あたたかい家族の絆

だと思うのです。

実際に意識してみると、最初はとても難しいと感じるかもしれませんが、ぜひ、心のどこかに留めておいてもらえたらと思います。

『結婚』と『相互依存』

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結婚して良かった

そう思える相手と夫婦になって、よりよい関係を築いていけたら幸いですよね。

 

要らぬ思い込みだった「家長の責任」

ボクは、「自分が家族を支えなきゃ」と全責任を負って、「自分はこんなに大変なんだ」と長年思ってきていました。そして、「自分は精一杯、家長の務めを果たしている」とも思ってきていました。

子どもが生まれてそれはさらに強まったと思います。

しかし、妻が精神的に成熟し、自立した生き方に変わっていったことで、夫婦関係やそれぞれの役割にも大きな変化が生まれました。

自分がやらなければ

頼ってはいけない

そう思っていたことは、知らぬ間に刷り込まれた思い込みであって、実際は妻や子どもに支えられていることで仕事ができてきた、ということに気づいたのです。

 

自己実現を妨げる囚われを手放しなさい

それに気づいたのは数年前でしたが、『医者の衣を脱ぐ』という決意によって、実はまだまだ「父権」と「過剰な責任感」、を手放せていなかったことに気づかされました。

 『自分から医者を取ったら何も残らない』という感覚を味わったことが最大のきっかけです。

自分が収入を得ることの責任から手を放してしまえば生活できなくなるのではないか」無意識にそれを恐れていたわけですが、それは逆で、任せるべきところを妻に任せ、あえて囚われから手を放すことで、新しい道を切り開いていける・・・自己実現を妨げる囚われを手放すことが求められていたのです。

 

男だから、女だからはもったいない

「(男だから)自分が責任を負っているんだ」

という意識が与えるマイナスの影響は、想像以上に大きく、もったいない。

  • 勝手に上下ができてしまう。
  • 気づかないところで優越になっている。
  • 妻や子どもの存在や行いの価値がどれほど尊いものか、気づきにくい。

これらに気づいたとき、驚いた、それが正直な感想です。

 

妻は妻で、「女性・妻・母親という役割」が無意識に沁みついていて、そのすべてを自分でやろうとしてきました。

食器を洗ってもらえたら助かるんだけど

そう思っても言えなかったそうです。

 

「お願い」「ありがとう」

今の若い世代の方たちや、意識の高い男性は、協力しあう子育てに積極的な様子がうかがえ、真似すべきところがたくさんあるのではないかと思います。

男はこうあるべき、女は・・・という固定観念は、夫婦の溝を深くするばかり。

気質、向き不向き、能力、才能、それらは個々で違いますし、とても多様なもの。

不向きなこと、できないこと、合う合わない、

そういったことと向き合って、合うものを選んでいこうとする時、夫だとか妻だとか、男だとか女だとか、そういうものは関係なくなる。

どちらが食器を洗うか、どちらが洗濯物を干すか、ゴミを集めるか、出すか、食事をつくるか、子どもと遊ぶか、買い物に行くか、どちらがどういう方法で稼ぐか・・・

その時々でできる方がやることだし、それがわかっていれば「お願い」「ありがとう」に何の遠慮もいらない。

男がこういうことを言うと、「えらい」と評される傾向にあると思うのですが、世の中ではそれほど夫婦が対等、平等でない証拠。

これは、お互いにフルタイムで働いている夫婦でもそうです。

夫がいても仕事で忙しく事実上、ひとり親家庭みたいと言うママたちもたくさんいる、ママたちに家事・育児も含めた総合的な労働の比重がのしかかっている、そういう現実も残っているのです。

 

 

共依存』か『相互依存』か

精神的に寄りかかって自分で立とうとしないのは『共依存

自分で立てないと、相手に支えてもらわなければならないので、自分の役割にしがみつきますよね。

「わたし(オレ)はあなた(キミ)の望むわたし(オレ)のままでいるから、あなた(キミ)もいつまでもわたし(オレ)の望むままのあなた(キミ)でいてね」そして「いつまでもわたし(オレ)を必要としてね」

と束縛してしまう。

どちらかが支えをやめると壊れるテントのような関係なので、常に緊張状態で身動きがとれない

 

なので、夫婦は、お互いが自分の足で立ち(自立)、共有するものを平等に対等に、お互いの違いや強み・弱みの部分を受け入れ、協力し合って支える 『相互依存』のかたち(鳥居のような)が求められます。

 

それを実現する過程に「成長」があり、人を「成熟」「自立」させます。

夫婦でお互いを高め合える間柄(相互依存)になる、それが『結婚』するひとつの大きな目的なのではないかと思います。

 

『結婚して良かった』と思える夫婦関係を育てよう

ひとりでできないこと、乗り越えられないことをひとりで乗り越えなさい、というのではありません。

むしろ、できないことをできないと認め、それを乗り越えるために相手に手助けを求めるのであれば、依存とは言いません。そこに乗り越えて、立とうとする意志があるからです。

二人で協力し合って成し遂げられ、結果、それが互いを成長・成熟・自立させるのであれば、きっと『この人と結婚して良かった』心からそう思える夫婦関係が育てられるのではないか、そう思います。

【一休み雑記】Nikon COOLPIX B700

   

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日曜日は、【一休み雑記】にしています。

今日は、半月まえの記事でお伝えしたカメラのことを綴ろうと思います。

anohi.hatenablog.com

ボクが初めてデジタルカメラを手にしたのは、2002年。

風景を見て直感で構図を切り取る撮り方が好きなので、望遠を使うことがほぼない。

そこで、レンズが良い、広角である、操作が難しくないという条件を提示しておすすめ頂いた、NikonCOOLPIX 5000を購入した。

このブログの各記事の冒頭に掲載している写真が、Nikon COOLPIX 5000で撮ったものである。

それから15年。

COOLPIX 5000は本当に良い仕事してきてくれたので、次が重要だ。

 

一眼レフ

デジタル一眼レフ

ミラーレス一眼カメラ

コンパクデジタルカメラ

 

どのタイプを選ぼうか。

一眼レフは、ボクにとって重さがどうしても馴染めない。目に入ったものをその場ですぐ撮れる身軽さ・操作性の簡単さを求める。

ミラーレス一眼カメラというタイプが、一眼レフなみにきれいに撮れて、軽くておすすめだという情報を得た。

しかし、使い慣れたコンデジ(コンパクトデジタルカメラ)も捨てがたい。

ミラーレスとコンデジの大きな違いはレンズ交換ができるかできないかという部分のようだ。

そして、コンデジは、レンズ交換ができない分、高級な機種になるとレンズが良いらしい。今のところ望遠レンズを使うことはなさそうだ。

やはり、レンズが良い、広角である、操作が難しくない、ということがボクにとって重要であるようだ。

なるほど、だからCOOLPIX 5000が良かったわけだ。

だったら、ボクはやはりコンデジ

 

COOLPIX P900 と COOLPIX B700 に絞られた。

価格が高いのはP900の方。

カメラのキタムラへ行き、詳しく説明を聞くと、P900は望遠が優れた機種らしい。ボクのように、ほとんど望遠を使わず風景を好むタイプだと、B700の方が合っていることがわかっていった。しかもこのクラスでは、世界最小・最軽量というのも魅力的だ。

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驚いた。

液晶に映った店内の映像が広い!理想を上回る広角仕様だ。

そして定価自体が安い!

15年間にカメラはこんなにも進化していたらしい。

Amazonとメーカーのリンクを貼っておきます。ご参考までに。 

 

www.nikon-image.com

 

 

 

幸せへの最短ルート

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うちの中にはヤモリが数匹いる。

数日前、ヤモリの卵を見つけた息子が、それを虫かごに入れ、赤ちゃんヤモリが誕生するのを待っている。

一昨日は、夕食後、クマゼミの幼虫が木の枝にのぼっているのを見つけ、そっと枝を切って、そっとそっと虫かごに入れ、観察していた。

クマゼミの幼虫は、羽化する場所を決めて、その2時間後には羽化を始めていた。

緑がかった薄い翅を乾かしている、初めてその様子を見た息子は感動し、その後も何度もセミの様子を見守りにいっていた。

セミは翌朝まで、抜け殻につかまりじっとしていた。

外でそっとふたを開け、ツンツンと触るとセミは飛び立っていった。

 

ボクは子ども時代の記憶がほんとうに乏しく、そういった体験をしたかどうか覚えがない。

しかし、息子を見ていて思う。

虫をさがす、虫を捕まえる、観察する、見守る・・・純粋に、夢中になって、その一瞬一瞬に没頭している

そしてひとつひとつに興奮し、喜び、感動する。

いのちが誕生する瞬間や、生まれたばかりのいのちに立ち合い、その無垢な存在を愛おしむ

そういう、何かに夢中になり、没頭し、感動する一瞬一瞬を、ボクも体験しなおしたいと。

そしてその興奮・喜び・感動の瞬間をだれよりも親と分かち合いたかったのだと。

今のボクは、すべての子どもたちが、この『共感』を心から欲していることがわかる。

 

みなさんの子ども時代はどうだったでしょうか。

何が好きで、何に感動し、何に夢中になったでしょう。 

大人になった今、好きなこと、時間を忘れて没頭したいことなどありますか?

 

 悩みや苦しみ、不安、恐れ、罪悪感、生きづらさなどに支配されると、どうしても視野が狭まり、負のループに陥ってしまうという人もいるだろう。

これも、『トラウマの後遺症』という【症状】のひとつであり、身についてしまった【習慣】だから仕方ない。

ボクも、「気にしすぎ」だとか、「何か趣味を見つけた方がいい」と言われたことが何度となくあったが、「ごまかしのきかない人間の気持ちなどわからない人に、簡単に言ってほしくない」と思っていたし、その頃の自分に、「何か没頭できるものを見つけた方がいい」とは言いきれない

 

何事にも「過程」がある。

「過程」にこそ価値がある

過程の中で、嫌なことは嫌と言っていいし、やりたくないことはやらならないでいいこともある。全部自分で決めていいし、自分のペースでいい

そのうちに、「苦しみから抜け出したい」、強くそう思う出来事や気持ちに直面した時に顔を出す『主体性』が、自分を起こそうとする

その時に、負のループに陥る習慣をつくったトラウマと向き合ってみよう。そしてもう一度子どもの自分に出会いなおし、過去のつらかった感情を解放しよう。

この過程は誰もが体験する過程ではないんだ。

むしろ、うまくいっていたら通ろうとしないだろう。

 

今のボクは言える。

ここを通ったほうが得をする

苦しみを苦しいと感じ、内面を深く見つめ、自分の弱さと向き合うことが、どれほど人を成熟させるのか、それを知っているからだ。

物事の、本質だとか、真実を見抜く目が養われ、何を求めればいいのか、どこへ向かえばいいのか、わかるようになる

遠回りに感じるかもしれないけれど、本質的な幸せへの最短ルートなんだ。

 

疲れたら、立ち止まってみよう。

もう一度、子どもの頃の、無垢な、純粋な自分を感じてみよう。

無垢で純粋な、あなたのいのちは、今もあなたの中にあるから

『内向型』は自己を実現することに特化した人間である

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いつもお読みくださりありがとうございます。

このブログ「あの日のボクへ」、昨日で十二話分の投稿を終えました。ここまでを「第一章」として区切りました。

今日からは、第二章「発信」と題し、読者の方をエンパワーできるような内容を発信していこうと思います。

どうぞよろしくお願いします。

 

内向的

この言葉にみなさんはどういうイメージを抱きますか?

ボクはこの言葉で“ボク”を表されるのがすごく嫌でした。

兄は「外向的」つまり社交性があり世渡り上手、ボクはそれが下手で残念なやつ。

そういうメッセージ性を、この言葉から受け取っていたからです。

                                      

しかし、「内向的」な気質を、社交的かそうでないかを振り分ける言葉として捉えるのは本質的でない。

それぞれ優れている面が異なるだけだ。

確かに、社交性があって世渡り上手だと生きやすいだろう。

社会に貢献できる人材として認められやすくもあるだろう。

 

一方で「内向的」な人間は、【自分の内側】を重要とする。

そのために社会が求める外向的な人間で生きようとすると、内側がだまっていられなくなり、苦しくて生きづらい。

そこから逃げれば、社会から脱落した者のようで、劣等感や自己否定感が上塗りされていく。

しかしそれは、そもそも「内向的」な気質が生かされる場所ではないということ。

 

【自分の内側】を重要とする「内向型」は、

自分の心(感情)に嘘をつけない

自分の心(いのち)を粗末にできない

そういうタイプの人間なのだ。

 

だからこそ、『追究』することが重要だ。

自分の好きなこと

ワクワクすること

没頭できるもの

身を置く環境

関わる相手

学び

仕事

生き方

 

それだけ『個性』『独自性』が強いのだ。

『内向型』は、国家や社会、親が求める人材になるための人間ではなく、『自己を実現』することに特化した人間である。

世の中を、虚構という幻から目覚めさせ、本質的なものへ変えるための、計り知れないエネルギーを秘めている人間である。

それを解放することが重要だ。

 

今のボクは『内向型』を誇りに思う。

第十二話 何に向かう「一歩」であれば今までとは違うのか

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一歩踏み出す

 

コツが、少しわかってきた。

今までとは確かに違う。

これまでも、人生の中で何度も「最初の一歩」はその都度必死で踏み出してきた

しかし、その一歩のほとんどは、本当の欲望にブレーキをかけた苦渋(時には屈辱)の一歩だった。

クライアントさんが「処刑台に上がる思いだった」「地獄に足を踏み入れるようなものだった」と表現されたことがあるが、自分のたましいが「どうしてもダメだ」と強く拒否することや環境を選ばされてきた人は、「一歩」に大きなトラウマを抱えているのだ。

だから怖い。その怖さは体験した人でないとわからない。

 

堀江貴文氏のすべての教育は「洗脳」である, 21世紀の脱・学校論 (光文社新書)について、このブログで何度か触れているが、その中で、教育とその弊害について語っていることは、ボクが「しつけ」とその弊害について語り続けてきたこととあまりにも共通点が多いことに驚かされた。

そして、その弊害からどうやって自分を解放させるのか、そこがはっきりと語られている。

この本の「はじめに」で堀江氏は、「諸悪の根源が教育であることは痛感しながらも、それを実際に変えるのは専門家の仕事だと思っていた。最近、その考えが変わってきた。(中略)みんなが学校生活で受けた『洗脳』を解くのはむしろ、ボクのような人間の役目なのかもしれない」と記している。

 

ボクの場合、親子関係を中心とした捉え方だが、親もその親も国家が一辺倒に与える『教育』を受けて育ち、堀江氏流に言えば、『洗脳』を受けてきている

 そういう教育を受けてきた多くの親たちは、その弊害に気づかぬまま同じことを我が子にしてしまう。 国家・社会が求める教育や人物像を基準として子育てしなければ、ダメな親、愚かな親とみなされかねないからでもある。

専門的にはそれを『心理的虐待』という。

ほとんどの親に悪気はない。子どもの将来のためにという愛情そのものが『心理的虐待』という結果を招いているという皮肉な現実なのだ。

 

堀江氏のような強烈な影響力、発信力などないが、ボクはボクで「心の専門家」として、「しつけ」「教育」の弊害についてや、『洗脳を解く』ために追究してきたことを発信していきたいと考えている。

ちなみにこれは、ボクにとって「ワクワクすること」ではなく「没頭できること」。

 

堀江氏は本の中でこう言っている。 

『 自らアクセルを踏み、ハンドルを切ること

そして何より「それをさせる気持ち」

早く先へ進みたい、じっとしていられないというワクワク感こそが、アクセルを踏み込ませる。

しかし今、多くの人たちがこの初期衝動を見失っている。

没頭する対象なんて、その気になればいくらでも見つかる。あなただってすでに出会っている。

でも、自分で自分にブレーキをかけているのだ。「こんなの、できっこない」と。

どうしてわざわざ自分にブレーキをかけるのか? 

答えは簡単だ。「学校」でそう洗脳されたからである』 

また、つまり

介入(コントロール)によって子どもたちの欲望にブレーキをかけさせている、それは「指導」という言葉で正当化されている。そのレールに乗ってきた人は、目の前のレールが外された時、あらゆる欲望にブレーキをかけ、あらぬ方向に動かぬようにする。それしか教わってこなかったからだ

とも語っている。

 

子どもたちは、学校で教育を受ける前からすでに、あの手この手で欲望や没頭することにブレーキをかけられているかもしれない。

 これによってトラウマを植えつけられたから、没頭によって育つ主体性を奪われたから、レールのないところへの一歩が『怖い』のだ。

 

 しかし、踏み出してみて思う。

「人生を楽しみながら生きる」ことへの「一歩」は処刑台でも地獄でもない、『幸せ』に続くもの

踏み出してみると、確かに違う。

違ったものが見えてくる。

どこに、何に向かう一歩なのか、それが重要だ。

 

ボクでいえば、もちろん写真は写真で大事だ。しかし、今のボクがこうして『追究』し、『書く』、それを『発信』することに『没頭する』ことを、「あの頃のボク」が喜んでいると思える。

国家・社会・親からの『洗脳』を解くための発信ができるなら、それはすごいことだ。

 

没頭する力

それはトラウマから解放されるための原動力でもある。

 

みなさんは、どんなことで「没頭する力」を発揮されますか?

 

第十三話につづく

第十一話 自分次第で世の中が違って見える

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画材店を訪れるのは何十年ぶりだろう。

ボクは不登校の頃、絵を描くことに没頭することで、つらさから逃れていた記憶がある。

大学の頃も、しばらく絵を描いていた時期があるので、恐らく画材店は約30年ぶりということになるだろうか。

今回画材店を訪れたのは、絵を描くための道具を買うことと、写真のための額縁について専門家のアドバイスを聞いてみたかったからだ。

 

ボクは、医者の衣は脱いだが、これまでの自分の経験と知識を無駄にしたくはないし、あの頃の自分を救うという意味でも、セラピストとしての仕事を手放すつもりはない。

 

一方で、「本当にやりたいこと」「ワクワクするようなこと」を見つけ、「人生を楽しみながら生きる」を実現することがこれからの人生には必要だ。

セラピスト自身が自己実現できていなければ説得力がない。

その「ワクワクすること」が、「写真」なのだ。「絵」はやってみないと本物のワクワクかどうかわからない。しかし、「写真」はボクを本気にする。

「これだ」と思う景色の中に、最高の構図を見つけた瞬間、無我夢中になる。「光」というスピリチュアルな要素は何よりもボクを駆り立てる。

ボクの写真は「マウイ島」で撮ったものばかりだが、「マウイ島」にはボクの求めるすべてがある。ボクのすべてを活性化させてくれる島なのだ。

早朝4時には勝手に目が覚めてすぐに動き出す。日常では常につきまとう身体の重さやだるさなど皆無。 

自分のどこにこれほどまでの体力やエネルギーがあったのだろうかと不思議に思うし、同時にそれをどれほどまでに消耗させて生き続けているのだろうか、と思ったことも覚えている。

その時に撮った数千枚の写真から厳選したものを額縁に入れて、作品として「売る」ということをしよう。

そして、また「マウイ島」に行き、撮ろう。

そう考えて画材店へ行ったのだ。

 

画材店には、マウイ島で購入した、プロの写真家の写真がコアの木でできた額縁に入っている作品を持っていき、それに近いクオリティの額縁があるかスタッフの方に尋ねた。

とても真剣に対応してくださった。

真剣に、一緒に考えてくれて、販売にふさわしいものを提案してくれた。

その店には、手作りのものを販売しているアーティストの方たちが多く訪れるらしく、それを生業とするその方たちの生き方そのものが当たり前に肯定されている。そういった雰囲気が安心感となって、ボクの選択を後押ししてくれるようだった。

 

生きる世界が変われば世の中は違って見える。

価値観が変われば人と関わることに新しい価値が芽生える。

人生を豊かにするかどうかは自分次第だ。

 

第十二話につづく