『あの日のボクへ』
中学3年の時、ボクは学校に行けなくなり、毎日ひとり、部屋で過ごしていた。
「この先どうなるのか、キミが抱えている得体の知れない不安と恐怖をわかってくれる人は、誰もいなかったね」
「怖いね」
「苦しいね」
「ずっとつらかったね」
ボクはそう言って、あの日のボクを抱きしめた。
これは、PTSD(トラウマの後遺症)からの回復のための通過点として訪れる『ヒーリング・クライシス』がボクの身に起こったことで受けた、インナーチャイルド・ワークの一場面です。
はじめに
当然のように後継の補欠候補として、医者以外の選択肢の無い環境の中、「医者になりたくない」「将来が怖い」が言えなかった。
幼い頃見ていた、自宅横の医院の手術室や、そこにあるホルマリン漬けの物体が怖かった。
それにボクは、集団に適応するのが苦手で、社交的な兄のようになれず、将来に不安と恐怖を感じている少年だった。
医者になるのが怖かった。
何とか医学部に入ったものの、生きたラットを実験台にする実習(グループの中の一人がラットを、ある残虐な方法で殺さなければいけない)、人体の解剖学実習はとても耐え難かったし、人前での手技で手が震えたことで、ますます医者として生きていくことが不安になった。
次第に、自分は『対人恐怖症(社会恐怖)』なのだということがわかり、数ある科目の中で、選択肢は『精神科医』に絞られた。
そしてボクは精神科医になった。
精神科医になってからのことは、これから少しずつ話すつもりです。
それから30年近くたった今、ボクは、カウンセラーの妻と一緒に執筆し続けてきた本を出版した。
ボクのように苦しんできた人が苦しみから解放され、自分らしい生き方を取り戻すための、また今に生きる子どもたちの中でも、特に
“敏感で“、“繊細で”、“高感度の感受性” を持った子どもたち(HSC=Highly Sensitive Ⅽhild)が守られるための本。
無事に本を出版できたことと、トラウマ回復のためのカウンセリング・セラピーに特化することを目的とし、開いていたクリニックを閉じてカウンセリングルームに変更、医療者という立場から離れられたことで、ボクの身辺が初めて『安心・安全な場』となった。
そうしたら、ボクの心が本当の回復に向けて動き出した。
その時に起こるのが、ヒーリング・クライシス。
ヒーリング・クライシスについて別の時に話しますが、抑圧し、麻痺させてきた感情が現在に蘇るのだ。
ボクの場合は、『恐怖』におそわれた。
妻に手伝ってもらってインナーチャイルド・ワークを受けた時、ボクはあの日のボクの恐怖に触れて思った。
あの頃、今のボクのように、
「学校に行かなくてもちゃんと将来はある」
「キミは医者よりももっと、持って生まれた才能を開花させることができる別の選択肢を選んだ方が良い」
と語ってくれる人と出会いたかった、と。
だからボクはこれから伝え続けようと思った。
ボクがボク自身のことを書き、誰であろうと生きる道は選べるのだということを語ることで、
不登校の子たち、
生きづらさや苦しみを抱えて固まってしまっている人たち、
また、身近にそういう人がいて、どうしていいかわからないという人たちが、少しでも楽になって、前を見ることに希望が持てるとしたら、それは、あの頃のボクを救うのと同じことなのだ。
少しずつ、少しずつ、一緒に歩いていこう。
キミはひとりじゃないよ。
これからよろしくね。
ーあの頃のボクと、これを読んでくれたあなたへー
斎藤 裕