第十二話 何に向かう「一歩」であれば今までとは違うのか

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一歩踏み出す

 

コツが、少しわかってきた。

今までとは確かに違う。

これまでも、人生の中で何度も「最初の一歩」はその都度必死で踏み出してきた

しかし、その一歩のほとんどは、本当の欲望にブレーキをかけた苦渋(時には屈辱)の一歩だった。

クライアントさんが「処刑台に上がる思いだった」「地獄に足を踏み入れるようなものだった」と表現されたことがあるが、自分のたましいが「どうしてもダメだ」と強く拒否することや環境を選ばされてきた人は、「一歩」に大きなトラウマを抱えているのだ。

だから怖い。その怖さは体験した人でないとわからない。

 

堀江貴文氏のすべての教育は「洗脳」である, 21世紀の脱・学校論 (光文社新書)について、このブログで何度か触れているが、その中で、教育とその弊害について語っていることは、ボクが「しつけ」とその弊害について語り続けてきたこととあまりにも共通点が多いことに驚かされた。

そして、その弊害からどうやって自分を解放させるのか、そこがはっきりと語られている。

この本の「はじめに」で堀江氏は、「諸悪の根源が教育であることは痛感しながらも、それを実際に変えるのは専門家の仕事だと思っていた。最近、その考えが変わってきた。(中略)みんなが学校生活で受けた『洗脳』を解くのはむしろ、ボクのような人間の役目なのかもしれない」と記している。

 

ボクの場合、親子関係を中心とした捉え方だが、親もその親も国家が一辺倒に与える『教育』を受けて育ち、堀江氏流に言えば、『洗脳』を受けてきている

 そういう教育を受けてきた多くの親たちは、その弊害に気づかぬまま同じことを我が子にしてしまう。 国家・社会が求める教育や人物像を基準として子育てしなければ、ダメな親、愚かな親とみなされかねないからでもある。

専門的にはそれを『心理的虐待』という。

ほとんどの親に悪気はない。子どもの将来のためにという愛情そのものが『心理的虐待』という結果を招いているという皮肉な現実なのだ。

 

堀江氏のような強烈な影響力、発信力などないが、ボクはボクで「心の専門家」として、「しつけ」「教育」の弊害についてや、『洗脳を解く』ために追究してきたことを発信していきたいと考えている。

ちなみにこれは、ボクにとって「ワクワクすること」ではなく「没頭できること」。

 

堀江氏は本の中でこう言っている。 

『 自らアクセルを踏み、ハンドルを切ること

そして何より「それをさせる気持ち」

早く先へ進みたい、じっとしていられないというワクワク感こそが、アクセルを踏み込ませる。

しかし今、多くの人たちがこの初期衝動を見失っている。

没頭する対象なんて、その気になればいくらでも見つかる。あなただってすでに出会っている。

でも、自分で自分にブレーキをかけているのだ。「こんなの、できっこない」と。

どうしてわざわざ自分にブレーキをかけるのか? 

答えは簡単だ。「学校」でそう洗脳されたからである』 

また、つまり

介入(コントロール)によって子どもたちの欲望にブレーキをかけさせている、それは「指導」という言葉で正当化されている。そのレールに乗ってきた人は、目の前のレールが外された時、あらゆる欲望にブレーキをかけ、あらぬ方向に動かぬようにする。それしか教わってこなかったからだ

とも語っている。

 

子どもたちは、学校で教育を受ける前からすでに、あの手この手で欲望や没頭することにブレーキをかけられているかもしれない。

 これによってトラウマを植えつけられたから、没頭によって育つ主体性を奪われたから、レールのないところへの一歩が『怖い』のだ。

 

 しかし、踏み出してみて思う。

「人生を楽しみながら生きる」ことへの「一歩」は処刑台でも地獄でもない、『幸せ』に続くもの

踏み出してみると、確かに違う。

違ったものが見えてくる。

どこに、何に向かう一歩なのか、それが重要だ。

 

ボクでいえば、もちろん写真は写真で大事だ。しかし、今のボクがこうして『追究』し、『書く』、それを『発信』することに『没頭する』ことを、「あの頃のボク」が喜んでいると思える。

国家・社会・親からの『洗脳』を解くための発信ができるなら、それはすごいことだ。

 

没頭する力

それはトラウマから解放されるための原動力でもある。

 

みなさんは、どんなことで「没頭する力」を発揮されますか?

 

第十三話につづく