学校って何のためにあるの? どうして行かなくちゃいけないの? に対するボクの答え

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「どうして学校へ行かなくてはいけないのか?」

そのこたえについて、「学校へ行くようになるためのこたえ」ばかりでなく、「学校に行かない選択肢(せんたくし)をかんがえるためのこたえ」も必要(ひつよう)なんじゃないか。

大人ばかりでなく、子どもだっていろんなかんがえに出会(であ)って、大人と子どもでいっしょにかんがえることができたらどんなにいいだろう。

この記事(きじ:ぶんしょう)は、そうかんがえて書きました。

 

【目次】

 学校に行くのはフツウだけど、学校以外(いがい)はフツウじゃない?

ボクは、不登校(ふとうこう)の時期(じき)もあったけれど、小学校(しょうがっこう)、中学校(ちゅうがっこう)、高校(こうこう)、大学(だいがく)と、ひととおりの教育(きょういく)をうけて大人になりました。

医者(いしゃ)にもなりました。

ですが、『ボクのため』であったはずの教育(きょういく)や、親(おや)が期待(きたい)する医者(いしゃ)というかぎられた選択肢(せんたくし)は、ボクを苦(くる)しくさせるものでした。

つらい、苦(くる)しい、イヤだ。

そんな気持ち(きもち)やうったえは、親(おや)をこまらせるばかり。

だからといって学校へ行かないと、将来(しょうらい)もないし、じぶんがダメ人間に思われてつらい。

学校(がっこう)に行くのもつらいし、「つらい、イヤだ」といって学校に行かないのもつらい。

何をえらんでもつらい。

生きていくのがつらい。

「死にたい」

本当にそういうかんがえがうかんだことも、なんどもあります。

この体験(たいけん)は、心の傷(きず)となって治らないまま、その後(ご)のボクの人生(じんせい)に悪(わるい)い影響(えいきょう)をあたえることになりました。

 

きっと、学校(がっこう)以外(いがい)の選択肢(せんたくし)がふつうにあれば、「死にたい」と思う子どもや人は、けっこう少なくなるのではないかと思います。

 

子どもがふつうに学校(がっこう)へかよってくれなければ親(おや)が困(こま)ってしまう世(よ)の中なのも、

 

子どもの教育(きょういく)の場所(ばしょ)としてみとめられているのは、ほぼ「学校」しかない

 

からです。

 

『学校へ行く』のはふつうだけど、『学校以外(いがい)』はふつうじゃない。 という見方(みかた)が、あまりにもふつうに、ボクたちの頭(あたま)の中にきざみこまれていますね。

 

学校へ行くことは必要な試練?

人は、たくさんの試練(しれん)をのりこえながら成長(せいちょう)していきます。

だから、「学校へ行けない」となると、「学校へ行く」ことを『試練(しれん)としてのりこえさせるべきもの』と大人がとらえてしまい、これをのりこえきれなければ大変(たいへん)だ! のりこえさせるのが親のつとめだ、責任(せきにん)だ! とおいこまれてしまうのです。

 

何も、学校でなくても、試練(しれん)は自然(しぜん)におとずれます。

この、『自然(しぜん)』が大切(たいせつ)だとおもうのです。

じぶんの意志(いし:かんがえ)でえらんだものの中でおとずれる試練(しれん)と、えらばさせられたものの中での試練(しれん)とでのちがいは大きすぎる。

大人が、子どものための試練(しれん)と思い込んで、むりにおしつけたり、大人の期待(きたい)にこたえるように、大人の意向(いこう:どうしたいかというかんがえ)にしたがうようにコントロール(ゆうどうする、しむける)してしまうと、

  • 子どもの心に傷(きず)や恐怖心(きょうふしん)をうえつける『虐待(ぎゃくたい)
  • 子どもの主体性(しゅたいせい:じぶんの意志《いし:かんがえ》・判断《はんだん:ものごとをりかいして、かんがえをきめること》によって、行動《こうどう》しようとする態度《たいど》)を奪う(うばう:とりあげる、うしなわせる)『虐待(ぎゃくたい)

となって、将来(しょうらい)にまで悪(わる)い影響(えいきょう)をあたえてしまうのです。

 

大人にとっては、決められていることを守って、子どもに試練(しれん)をのりこえさせようとがんばっただけ。そのがんばりが、子どもの心や人生(じんせい)に悪(わる)い影響(えいきょう)をあたえるなんて、かんがえたくないですよね。

 

『すべての教育(きょういく)は洗脳(せんのう)である』 という本

『すべての教育(きょういく)は洗脳(せんのう:今までのかんがえをあらいながして、あたらしいかんがえをうえつけること)である』という本をかいた人がいます。

ホリエモンさんって知(し)ってますか?

堀江貴文(ほりえたかふみ)さんという方です。

ボクは、この方のおなまえやこの方がたくさんの本(ほん)を出されていることは知っていましたが、この方の本をかってみようとおもったのは、本のタイトルが気になったからです。

 

この本には、ボクや、たくさんの子どもたちがかんじている、

「どうして学校へいかなくちゃいけないの?」

「学校って何のためにあるの?」

という疑問(ぎもん)にたいしてのかんがえがはっきりとかかれ、現実的(げんじつてき)な問題(もんだい)を問題として正面(しょうめん)からとらえられています。

 

堀江さんもボクも、学校に行ってます。

行ったから今があるとおもわれるかもしれません。

だけど、行ったからわかるのです。

行くことでうばわれるものがどれだけたいへんなことかということ。

行かないことで育(そだ)てられるものがどれだけあるかということ。

これは、人間の幸(しあわ)せに、そのままつながっています。

 

教育(きょういく)とは何のためのもの?

堀江さんが本に書いていらっしゃることは、大人だけでなく、子どもも(し)ることができていいんじゃないかなと思います。

まず、この本の中には、

「はっきり言おう。もう『学校』は必要(ひつよう)ない」

という堀江さんのことばがあります。

もちろん、このことばがでてくるまえに、その理由(りゆう)がたくさんかかれていますが、それでも、こんなにはっきり言って大丈夫なのだろうか!?

とおどろきました。

おそらく、“今のままの”学校は必要(ひつよう)ない、という意味(いみ)だと思います。

今とても苦(くる)しい方にとっては、重要(じゅうよう)なことばだと思いますので、堀江さんが、どうしてそういうことを言われたのか?  印象(いんしょう)に残(のこ)った文章(ぶんしょう)を、少しわかりやすいことばになおしてかかせていただきます。

 

・もともと『学校制度(がっこうせいど:きまり)の基礎(きそ:どだい)』は、イギリスで生まれた。
 
・その時(とき)のイギリスでは、大量生産(たいりょうせいさん:たくさんのせいひんをつくる)を目的(もくてき)とする工場(こうじょう)の働き手(はたらきて)を必要(ひつよう)としていた。
 
・政府(せいふ)は、「子どもの保護(ほご)」と「子どもをのぞましい工場労働者(こうじょうろうどうしゃ)へ育(そだ)て上げること」のために、「学校」をつくった。
 
・つまり学校はもともと、子どもという「原材料(げんざいりょう)」をつかって、「産業社会(さんぎょうしゃかい)に適応(てきおう:うまく合わせられる)した大人」を大量生産(たいりょうせいさん)する「工場(こうじょう)」のひとつだったのである。
 
・今の学校も、この原則(げんそく:きほんてきなきまり)はまったくかわっていない。
 
・過去(かこ)の歴史(れきし)において、国と国どうしの緊張(きんちょう)が高(たか)まっていく中で、多くの国が学校をつかい、自分の国の国民(こくみん)愛国心(あいこくしん:じぶんの国をあいする心)をそだてた。
 
・戦争前(せんそうまえ)の日本は、愛国教育(あいこくきょういく)をあまりにも過度(かど:いきすぎ)につきつめた国だった。
 
・日本は今も戦争前(せんそうまえ)からの常識(じょうしき:ふつうとされるちしきやいけん、はんだんりょく)をしつこく引きずりつづけている。
 
・子どもの人権(じんけん:人間が人間としてとうぜんにもっているしかくや力)をかたりながら、もういっぽうでは、子どもたちを未熟(みじゅく:じゅうぶんでない)で不完全(ふかんぜん:かけたり、じゅうぶんでないところがあってかんぜんでない)な存在(そんざい)としてきめつけ、「人格(じんかく:人間せい・人間としてのありかた)の完成(かんせい)」を目的(もくてき)とした教育(きょういく)を行っている。
 
・子どもたちをいっかしょにあつめ、おなじ時間(じかん)、おなじカリキュラムで、おなじ教科書(きょうかしょ)によって学(まな)ばせる。現在(げんざい)の「学校」が、こうしたむかしから行われているかたちをそのままにしていることそのものが、戦争(せんそう)に勝(か)つための教育(きょういく)をしていた時代(じだい)の名残(なごり:そのけはいやえいきょうがのこっている)でしかない
 

・ 会社(かいしゃ)などの企業(きぎょう)は、従順(じゅうじゅん:すなおで人にさからわない・おとなしくて人のいうことをよくきくこと)な働き手(はたらきて)を求めている。

だから学校は、個人(こじん:ひとりひとり)のためではなく、国のため、社会(しゃかい)のため、企業(きぎょう:かいしゃ)や組織(そしき:しゅうだん)でやくにたつはたらきのために、『素直(すなお)にいうことをきく扱(あつかい)いやすい人物(じんぶつ)を育(そだ)てるための場所(ばしょ)』である。

というわけです。

そういうコントロールがねっこにある、というものです。

 

教育(きょういく)についての、セラピストとしての見解(けんかい)

セラピスト(心の専門家(せんもんか))としてのボクの見解(けんかい:かんがえかた)ですが、「教育(きょういく)」や「学習(がくしゅう)」は、できるかぎり

『対等(たいとう:上下がない)で平等(びょうどう:さべつがない)な関係(かんけい)』をたもったうえで、

(かぎ)りなく「やらされる体験(たいけん)」を少(すく)ないものとして、

子どもの好奇心(こうきしん:きょうみ・かんしん)にもとづいて、

『自由意思(じゆういし:じゆうなかんがえ)による選択(せんたく)』と『主体性(しゅたいせい)』が保障(ほしょう:ほご、まもられること)され、

子ども個人(こじん)の自立心(じりつしん:人にたよらず、じぶんの力でやっていこうとする心)・独立心(どくりつしん:ひとり立ちしようとする心)が養(やしな)われるもの

であってほしい、いや、そうなっていかなければならないとかんがえるのです。

 

多様性(たようせい)

企業(きぎょう)や組織(そしき)につとめて、そこでうまくやっていくのが合っている人にとっては、学校は苦痛(くつう:ストレス)ではないかもしれません。

けれど、企業(きぎょう)や組織(そしき)に合(あ)わない人もいる。それが個性(こせい:それぞれがもつ自分らしさ)だし、多様性(たようせい:いろんなものがあるということ)なのです。

 

さいごに

『学校(がっこう)って何のためにあるの?』

その答えは、『じぶんにとって学校が必要(ひつよう)だとおもう子のため』と、ボクはこたえたいです。

 

そして、お父さん・お母さんが、自由(じゆう)に柔軟(じゅうなん:しなやか)にわが子の個性(こせい:それぞれがもつ自分らしさ)や気質(きしつ:にんげんがそれぞれにもつ、心やからだのせいしつ)に合(あ)った“選択肢(せんたくし)”をひろげられる世(よ)の中になってほしいと切実(せつじつ:心から)におもうのです。