ある子が言った、「学校はチュートリアル」

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チュートリアルという言葉(ことば)を知(し)ってますか?

 ボクはよくわかっていなかったので、調(しら)べたものを引用(いんよう:ほかの人の文章⦅ぶんしょう⦆をじぶんの文章に引いて説明⦅せつめい⦆にもちいること)させていただきます。 

チュートリアルの意味(いみ)とは 「最初(さいしょ)チュートリアルが実施(じっし)される」 ゲームやソフトウェアなどでよく使(つか)われるカタカナ語です。

和訳(わやく:にほんごに訳⦅やく⦆すること)が難(むずか)しいので解説(かいせつ)します。 

チュートリアルの意味(いみ)> これは、 「個別指導(こべつしどう)、家庭教師(かていきょうし)」 という意味です。

(てん)じて、 「基本操作(きほんそうさ)などを教(おし)えるプログラム」 という意味で使(つか)われます。 一番最初(いちばんさいしょ)に操作方法(そうさほうほう)などを説明するプログラム・教材等(きょうざいなど)のことで、 「あなた一人に対して教育(きょういく)する(個別指導)」という意味で、 このチュートリアルという言葉が使われています。

主に基本操作や基礎的(きそてき)なものを教えるためのプログラムのことを言い、 動画(どうが)や、実際(じっさい)の操作(そうさ)を伴(ともな)っての説明が多(おお)いです。

個別指導という本来(ほんらい)の意味を思い出し、 何か自分に教えてくれるものなのだと思っておこう。

語源(ごげん)ラテン語で「保護者(ほごしゃ)」を意味する言葉。 「一人の面倒(めんどう)を見(み)る」と、個別指導という意味になります。        

意味まとめより引用

 

チュートリアル

学校に行っていない男の子がいます。

彼はゲームが大好きです。

彼は言いました。

「学校はチュートリアルみたいだからイヤなんだ、自由(じゆう)じゃない」

 

・・・

ボクには何のことだかさっぱりわかりませんでした。

 

チュートリアル? お笑(わら)いの?」

と聞(き)くと、

 

「は? 違(ちが)うよ、ゲームの最初にあるでしょ、あれだよ」

 

ボクはゲームをしないのでやっぱりわかりません。

 

「あのね、このゲームはこんなふうにやっていけばいいんですよっていうのを、言う通(とお)りに操作させて覚(おぼ)えさせていくの。

あれは自由じゃないの。

ボクは、教えられるのはイヤ。

自由にやりながら自分でわかっていくのがいいんだ」

 

なるほど、誘導操作(ゆうどうそうさ)に対(たい)する拒絶(きょぜつ)か。

 

「学校が自由じゃないってことを言ってたんだね。

誘導されて操作されるのがイヤってことだよね」

 

「うん、ボクはわからなくてもいいから自由にやりたいんだ」

 

まだ小学校低学年(ていがくねん)の彼(かれ)の的(まと)を得(え)た表現(ひょうげん)にボクはとっても驚(おどろ)いて感心(かんしん)しました。

 

チュートリアルは必要(ひつよう)、と思う子もいれば、

チュートリアルは適当(てきとう)でいい、と思う子もいる

そしてチュートリアルはイヤ、という子がいるわけです。

 

彼が言うように、学校も同じなのですね。

(*個別指導・家庭教師というチュートリアル本来の意味では学校と合っていませんが、基本操作や基礎的なものを教えるプログラムといった点での共通点(きょうつうてん)でとらえています)

 

『人生は自分で切り開く!』

そういうパイオニア精神(せいしん)の持ち主(ぬし)が学校へ行くことを押しつけられ、レールの上に敷(しか)かれようとしたとき、

心が死ぬ

という感覚(かんかく)を味(あじ)わう場合(ばあい)があるようです。

 

チュートリアルのことを話した彼の場合は、はやい段階(だんかい)で学校へ行かない選択(せんたく)がなされました。

そして、いろんなことに興味(きょうみ)を持ち、ときには真剣(しんけん)な表情(ひょうじょう)になって集中(しゅうちゅう)しながら、想像力(そうぞうりょく)を発揮(はっき)しています。

 

好きなことに没頭(ぼっとう:ねっちゅうすること)できることはすばらしい。

失敗(しっぱい)しながらも、自分の目、感覚(かんかく)で体験(たいけん)しながらわかっていく

 

そういう生き方を望(のぞ)む人は、少なくないのかもしれません。

 

「待つ」「見守る」大人の姿勢

セラピストとしてボクは、

 子ども時代、中でも幼少期(ようしょうき)は、「与(あた)えられたものをこなすこと (やらされる体験⦅たいけん⦆)」よりも、

 

子どもがじぶんから進(すす)んで事(こと)を行おうとする

自発性(じはつせい)』、

 

じぶんの意志(いし)で考え判断(はんだん)して行動(こうどう)するという

主体性(しゅたいせい)』、

 

を尊重しながら

 

その子どもの姿(すがた)口出(くちだ)しせずに、じっと

(ま)」「見守(みまも)大人の姿勢(しせい)

 

が、その子らしさを育(はぐく)ませるためにとても重要(じゅうよう)で必要なものだと感じています。

 

さいごに

社会(しゃかい)に出て生きていくために必要とされることを教えるために学校がある。

それは、ゲームをやるために必要なことを教えるためのチュートリアルと似(に)ている。

 

 そこに『自由』がないと感じ、 

「必要としない」

「自分で開拓(かいたく:きりひらくこと)しようとする」

 子どもが存在するという事実。

 

遠回(とおまわ)りかもしれないけれど、デコボコかもしれないけれど、そういう生き方を選ぶことで才能(さいのう)を開花(かいか)させる人生があることを改(あらた)めて考えさせられました。