『自己をはこびて万法(ばんぽう)を修証(しゅしょう)するを迷いとす。
万法すすみて自己を修証するはさとりなり』
〈道元禅師:正法眼蔵(しょうぼうげんぞう) 現成公案(げんじょうこうあん)〉
光と影と執着
ボクは、3浪して何とか医学部に入り、途中方向性を見失って1年休学しましたが、復帰したあとは、コツコツと勉強していた甲斐もあり、卒業試験で主席を取ったことを覚えています。しかしそれはあくまでも“光”の部分です。
一方で、“影”の部分も持ち合わせていました。それは、大学の精神科の講義の中で、自分は『神経症』で『対人恐怖症(社会恐怖)』なのだ、ということに気づかされていったのです。
猛勉強して1番を取ったのも、満たされることのなかった親からの承認欲求を、好成績を取って注目を引くことでしか満たされる方法がなかったのだなぁ、そこまでありのままの自分を認められることがなかったのだなぁ、と今では冷静に分析することができます。
日本人の多くが抱える、「他人よりも上に立っておきたい」、「他人よりも遅れをとってはいけない」という考えに、当時のボクは強迫的に支配されていたような気がします。
森田療法と禅の思想
そして精神科医になった後は、その『対人恐怖症』がもたらす苦しみの現実に直面させられる機会が激増し、次第にボクは、仕事ができなくなって、追い詰められていきました。
このままでは嫌だ。
必死の思いで本屋で本を探しました。
精神科医である、故・鈴木知準先生が書かれた「神経症はこんな風に全治する」という『森田療法』の本に出会い、わらをもすがるような思いでボクは、東京都中野区にあった『鈴木診療所』に行くことに決めました。
「とにかく不安は不安なりにそのままにして目の前の必要な動きの中に、すっとでも、よろよろとでも入っていく、という経験を積み重ねていくうちに、不安は不安でそれを引きずらない自由な心が展開する。それが『あるがまま』の体得である」
その体得を目標に、『鈴木診療所』に3か月半入所しました。
今思えば、ボクは、幻想にしがみつく『*理想の自己』に対して強く執着していたことにより、強い不安・恐怖という「迷い」が生じ、自由さを失って身動きが取れなくなっていたのでした。
*『理想の自己』というのは、簡単に言えば、「親」が求める育てやすい理想的な良い子のことです。またこの「親」は、そのまま「学校」や「社会」にスライドし、「学校」や「社会」が求める理想的な人物にもなります。
そのような森田療法には、禅の思想と共通する部分があるということ、その共通点についてなどを鈴木先生の講話で聴いていました。
気づきを与えてくれる道しるべの言葉
冒頭に書いた、
『自己をはこびて万法を修証するを迷いとす。
万法すすみて自己を修証するはさとりなり』
という言葉は、その禅(道元禅師)の言葉ですが、鈴木先生の講話の中で取り上げられていたかもしれませんが、この言葉を本当の意味で理解していったのは、もっと後でした。
節目節目ボクに大切な気づきを与えてくれる道しるべの言葉です。
「自己を運びて万法を修証する」
とは、自分の立場から、あれこれと思案して、物事を何とか整えようとすることです。
わかりやすく言えば、目の前の状況や他人の考えを自分の都合に合うようにコントロールしようとすること、
これが「迷い」だとしています。
ボクでいえば、 『理想(偽り)の自己』を防衛するために自己の内外をコントロールしなければ!と必死だった自分。
内面のコントロールとは、理想的な自分に近づけたり、理想的な自分を保つために、自分が受け入れられない不快な考えや感情、体験などを否認したり、抑圧したりすることです。
外面のコントロールとは、親兄弟の関係の中で抱えることとなった、低い自己価値・無力感・劣等感・自己否定感を、「他人と比較して優位に立とうとする」「常に主導権を握ろうとする」などして心を安定させようとすることです。つまり、自己をとりまく人や環境が自分に及ぼす力や状況を、自分で何とかコントロールしようとする自己防衛機制です。これらは悲しいことに、与えられた関係や環境に適応していくために身についてしまったサバイバル・スキルでもあるのです。
「万法進みて自己を修証する」
とは、逆に外の世界のほうが自分に向かってきて、言わば外界と自分が一体となっていくことです。
わかりやすく言えば、自己をめぐる人や環境などの、外界から働きかけられる大きな力によって本来の自己に目覚めること、
これが「悟り」だとしています。
「悟り」とは「自由に流動する心」を意味します。
人間の悩みの多くは、この「迷い」が原因となっているというわけです。
こういうふうにしてボクは、この言葉をボクなりに解釈してきました。
さらに、この言葉につながるボクの経験について記したいと思います。
『理想(偽りの)自己』と『本来の自己』
ここでいう自己とは「我見我欲」のことです。
「我見我欲」とは何か。
ボクが『理想自己』と呼んでいるそれが「我見我欲」と一致するのではないかと考えています。
『理想自己』とは、親の掲げる理想に合わせるために外面のコントロールと内面のコントロールを身につけながら適応している、作り上げられてきた自我=『偽りの自己』のことです。
負わされたトラウマが大きいほど、防衛のために身につけざるを得なかったサバイバル・スキル(『防衛自己』)が強化され、『理想自己』を堅く守ろうとします。
そして、迷いを起こさせる強い執着が生まれます。
自分の力でコントロールをしようとすればするほど『本来の自己』から遠のいていく、迷いに陥っていくのです。
しかし、そういう理想とする自分(『理想自己』)が『自分』だと思い込んでいるわけだから、そうじゃない方向(本来の自己が目指す方向)に行こうとすると、不安になったり脅かされたりして、やはり理想の自分(『理想自己』)にしがみつくのです。
外の世界からの大きな力の働きかけ
先日投稿した記事「『人生を幸福にする』選択のために手放すものとは」の記事にも書きましたが、
「勤務医を辞める」「精神科医を辞める」選択をするまで、ボクは『医者という理想自己』にしがみつき、『万法を修証(自己をとりまく状況をコントロール)』して、迷いに陥っていたわけです。
そのボクにきっかけを与えてくれたのが、息子の「行ってほしくない」という言葉でしたが、この言葉が『万法(外の世界からの、大きな力)』に当たるのだと思うのです。
外の世界からの、大きな力がボクに働きかけ、「手放すことで『本来の自己(自由)』を取り戻していくこと」を促してくれたと捉えています。
この息子の言葉は、のちの「精神科医を辞める」につながっていくのですが、『本来の自己(自由)』を取り戻していくために必要な安心・安全な環境を整えるためのお膳立てでもあったのです。
ですから、子どもの気持ちや願いに真摯に向き合って方向性を決めるのは、子どもへの尊重でもありますが、大事なことは、その現象自体に大きな意味があるということ。
そうすることが自己(『理想自己』)へのしがみつきからの解脱になるということで、大きな力の働きに身を解き放つという意味なのです。
点と線
物事を選択、決断する瞬間は、点のように見えますが、線でつながっています。
線は個々の歴史であり、その歴史の中には、他人が覗き見ることができない困難や苦悩があります。
結婚して新しい家族が増えれば、今度は、家族という単位の歴史を刻んでいきます。
違う人間同士で構成された家族。
それぞれ違う感性、違う個性、違う人格であるからして、互いを思い通りにコントロールすることはできません。
そのような家族に、転機が訪れる時が『点』であれば、その前に潮の流れが変わる。
点と点をつなぐ線には、「気づけ」、「気づけ」と促す『きっかけ』がいくつも存在しているのです。
それが人間を超えた『万法(ばんぽう)』という大きな力の働きだと思うのです。
最後に
どのような選択にも間違いも失敗もありません。
大事なことは、選択の結果を誰かのせい、何かのせいにしないこと。
自分で自分の決断に責任を持つこと。
これを肝に銘じて過ごしています。
最後までお読みくださりありがとうございました。