学校のことでなやみがある子どもさんと、そのお父さん・お母さんへ
こんにちは。
ボクは、1か月前に、このブログ「あの日のボクへ」で発信(はっしん)をはじめた、斎藤 裕(さいとう ひろし)といいます。
小学生、中学生、高校生のみなさんにとって現在(げんざい)は夏休みですが、1学期を終えて、
「学校へ行くのがつらい」
「学校に行きたくない」
というきもちをかかえている方もいらっしゃると思います。
今回からの第三章では、そういう方たちとの対話(たいわ)をするような内容(ないよう)の記事(きじ)を発信(はっしん)してみたいとかんがえています。
というのも、
ボクじしん、その中の一人でしたし、中学3年の時は、学校に行けなくなり、その不登校(ふとうこう)の経験(けいけん)がトラウマとなって、それをずっとひきずっていたからです。
「親やみんなに迷惑(めいわく)をかけている」
そういう負い目(おいめ:うしろめたさ)や罪悪感(ざいあくかん:わるいことをしているようなきもち)を。そして、
当時、兄弟や友だちと同じように適応(てきおう:うまく合わせる)できないことにたいしては劣等感(れっとうかん:人よりまけているようなみじめなきもち)をかかえ、将来(しょうらい)のことも不安(ふあん)で、毎日が暗闇(くらやみ)の中のようでした。
できれば、「はじめに」をよんでもらえると、ボクの「不登校時代(ふとうこうじだい)」の心境(しんきょう:こころの中)、今のボクがあの日のボクにかたりかけたこと、ボクの生い立ちの中の苦(くる)しみをどうしてかたろうと思ったかがわかってもらえるかと思います。
「学校に行きたくない」という気持ち
それは、いつからあなたの中にありますか?
それは、お母さんやお父さんにはうちあけられましたか?
「学校に行きたくない」理由(りゆう)
子どもが「学校に行きたくない」というと、大人はだいたい「どうして?」と理由をたずねたくなります。
「どうしてか、わからない」
それが本当の正直(しょうじき)なきもちだとしても、なかなかうけ入れてもらえません。
だけど、ボクにはそれがよくわかります。
自分がそうだったから。
「理由はわからないけど、学校に行きたくない」
それは、ごまかしのきかない、自分の中にわいてみちている、自然(しぜん)な感情(かんじょう)なのですよね。
そういうきもちになってしまうあなたは “ぜったいに” 何もわるくありません。
むしろ健康(けんこう)だといいたいです。
人は、それぞれちがった気質(きしつ:にんげんがそれぞれにもつ、心やからだのせいしつ)や感受性(かんじゅせい:そとからのしげきをふかくかんじとり、心にうけとめる力)の持ち主です。
何一つとして同じものはないのに、みんながみんな学校という環境(かんきょう)に適応しなくては(うまく合わせられないと)いけないなんて、残酷(ざんこく)だなぁ、とボクはそう思うのです。
たとえば、人と違う個性(それぞれがもつ自分らしさ)、鋭い観察眼(人やものごとを見ぬく目)、強い感受性(かんじゅせい)や高い共感力(人のきもちを自分のもののようにかんじとる力)をもっていれば、それだけで集団生活(しゅうだんせいかつ)はつらいものになります。
実際(じっさい)のところ理由としては、
「なじめない」
「友だちとうまくいかない」
「先生と合わない」
「競争(きょうそう)がいやだ」
「勉強(べんきょう)や宿題(しゅくだい)でしばられるのがいやだ」
「なんでもきめられたとおりのことを強制(きょうせい:おしつけ)されるのがいやだ」
「給食がいやだ」
「仲間はずしやいじめがあって、だれかがきずつけられるのを見るのがつらい」
「仲間外れやいじめ、無視(むし)、バカにされてつらい」
「学校に行く意味(いみ)がわからない」
など、まだまだたくさんかんがえられます。
これらはどれも、本人にとっては深刻(しんこく:おもくておおきい)なもんだいです。
しかし、 「そんなことぐらいで」 と言われると、「そんなこと」じゃないのに、そうとしかうけとってもらえない現実(げんじつ)に、ますます心をとざさなければやっていられなくなります。
「人を信(しん)じられない」という大人が多いのも、このような、わかってもらえず決めつけられるような関係性(かんけいせい)や体験(たいけん)が影響(えいきょう)しているのではないでしょうか。
「どうして学校に行かなければいけないの?」
この質問(しつもん)をなげかけられたら、大人の人たちはどうこたえるでしょう。
いろんなもっともらしいこたえがかえってくるかもしれません。
でも、それをよくかみくだいてみると、「将来(しょうらい)」とか「社会性(しゃかいせい:よのなかでまわりのかんきょうや人とうまくやっていくせいしつ)」とか「自立心(じりつしん:人にたよらず、自分の力でやっていこうとする心がまえ)」という大人じしんの期待(きたい)や心配(しんぱい)が、「あなたのため」「あなたが苦労(くろう)しないように」という親切心(しんせつしん)におきかえられているようにかんじませんか?
本当に「あなたのため」というのならば、まずは「行きたくない」というきもちをうけとめて、いっしょにに立ち止まってほしい。
「行きたくない」とかんじる自分の、ほかの子とはちがう個性(こせい)や気質(きしつ)をもっとよく理解(りかい)して、うけいれてほしい。
そして、自分に合った選択肢(せんたくし)をえらぶことに、心から賛同(さんどう:さんせい)してほしい。
それが子どものねがいであり、大人が心配(しんぱい)するところの「将来(しょうらい)」に希望(きぼう)がもてる大切な方法(ほうほう)ではないか。そう思います。
もし、大人がわの人で、「賛同(さんどう)できない」と思う方は、ごじしんが「ほかの子に遅(おく)れをとってはいけない、おちこぼれてはいけない」という考えに支配(しはい)されてきていないか、そして、それが今も恐怖(きょうふ)をともなって思い起こされ、子どものすがたに自分をかさねてしまっていないか、感じてみていただけるとたすかります。
さいごに
9月1日は、子どもの自殺(じさつ)がもっとも多い日。
という衝撃的(しょうげきてき)なことばを見たり聞いたりするようになっています。
そうでなくても、
「学校は地獄(じごく)だった」
「親に心配(しんぱい)かけられず、毎日処刑台(しょけいだい)にあがるきもちで登校(とうこう)していた」
という体験(たいけん)をかたる人や、学校でのつらかった体験(たいけん)がトラウマとなって、いつまでも心に悪影響(あくえいきょう)をあたえられつづけている人もたくさんいます。
大人が子どもに“身につけてほしい”とねがってやまない「社会性(しゃかいせい)」「自立心(じりつしん)」、そして、問題(もんだい)なくあゆんでほしいとねがう「将来(しょうらい)」が、『学校しかない』という思いこみによってうばわれている。
こんな皮肉(ひにく)のような現実(げんじつ)を、きちんとうけ止めて、『選択(せんたく)することが普通(ふつう)』の世の中にしなくてはならないのではないかと思っています。
ボクは、このブログで、不登校(ふとうこう)や、社会(しゃかい)・環境(かんきょう)に適応(てきおう)できずつらい思いをしている、など、「あの日のボクと」同じきもちをあじわっている人々へむけて、『だれであろうと生きる道は選(えら)べるのだ』ということを発信(はっしん)しています。
少しでも多くのみなさんに、『選択肢の重要性(せんたくしのじゅうようせい:えらぶことができるということが、どんなにたいせつかということ)』がつたえられるよう、シェア(わかちあう・ひろめる)してくださるとありがたいです。
どうぞよろしくおねがいいたします。