2018-03-04 の記事、
【HSC】『子どもの気質に合わせた子育て』を阻むものとは?
の中で
「人並みにしておかないといけない」
「ほかの人(子)に遅れをとってはいけない」
「人に負けてはいけない」
「社会から落ちこぼれてはいけない」
「人から嫌われないように」
「世間様に後ろ指を指されないように」
「世間に出て恥をかかないよう」
「早く社会に適応しなくては (早く社会に適応させなくては)」
多くの親御さんを縛るこのような考えが、
HSCである子どもさんの気質に合わせた子育てや、子どもさんの気質を花開かせるための人生の選択に、立ちはだかる大きな壁のひとつとなっている、ということをお伝えしました。
その影響として大きいと考えられるのが、「社会性」です。
「社会性」は、すべての人に求められているように感じられますが、すべてのタイプに当てはめさせることは不適切で、ことHSC・HSP気質を生まれ持った人たちの中には、特に「社会性」が求められる環境を避けた方が良いタイプの子・人がいるのです。
まずは、この「社会性」について掘り下げてみたいと思います。
- 「社会性」とは
- HSC・HSPが大切に思うコミュニケーションとは
- 主体性
- 「義務教育」は、子どもが学校に行く義務ではない
- HSCに多い、気質の特徴
- 「視覚空間型」は学校では特性を活かせない
- どうして学校に行かないといけないのか
- HSCと不登校
- 生きる価値を家庭の中で
- 決める権利は、ほかの誰でもなく「自分(その子)」にある
- 家庭で収入を得ながら生きる価値を高められる生き方の構築
- さいごに
「社会性」とは
まず、 「社会性」とは一体なんでしょう?
辞書には、このように記載されています。
①集団をつくり他人と関わって生活しようとする、人間の本能的性質・傾向。社交性。
②社会生活を重要視する傾向。
社会は多数派の人の在り方を基準に作られています。
そして、外向型を理想とする人たちのほうが多数で、私たちはその外向型の人間を理想とする価値観の中で当たり前のように生活しているのです。
多くの学校も、多数派の占める外向型の子どもたち向けにつくられていると言えます。
ですから、辞書の中の「集団をつくり他人と関わって生活しようとする、人間の本能的性質・傾向。社交性」とは、多数派の占める外向型を基準にしたものと捉えられます。
では、全体の15~20%に該当すると言われているHSC・HSPとは、どのような子ども・人たちなのでしょう。
HSC・HSPが大切に思うコミュニケーションとは
HSC・HSPを提唱したエレイン・N・アーロン博士によれば、HSC・HSPの7割は内向的なのだそうです。
内向的な人というのは、刺激の強すぎない環境を好む性質であり、内面の世界に意識が向いていて、自分の感じ方を大切にする人で、個人的には、その多くがご自身の家庭に幸せ感や価値を求めているものがあるように感じています。
中でもかなりの割合のHSC・HSPから感じられることは、HSC・HSPのコミュニケーションが、社会が求める外向的社交的なコミュニケーションとは性質が異なり、安心できる特定の人との関係において、共感や共有を重視するといったより深い親密性や心の交流を求めていくというものであるというところ。
その関係に上下が無く対等性が保たれていれば、自然とニーズを伝えたり、交渉したりする力も養われていくというものです。
つまりそれは、家庭に『安心の基地』を強く求めているということです。
主体性
そしてHSC・HSPの気質は、そのような信頼できる人たちの中で、自分のペースで「自発的」に「主体性」をもって自分らしく生きることに生きがいを感じる子や人たちであるというところで、
それは他人からコントロールされたり、やらされたり、押しつけられたりするなど、その子・人の独自性が阻まれることを強烈に嫌がるほどの「強い個性」だということです。
それは別の視点から見ると、天から与えられた資質(天賦)を完全な姿へと発展させようとする力が強いということでもあるのです。
一般に「主体性」とは、自分の意志・判断によって行動しようとする態度や性質のことを表します。
ただし、HSC・HSPがその「主体性」を発揮するには、「ありのまま感じ、ありのままに表現していくということが妨げられない」環境や条件が必要になります。
というのは、良心的で共感性が高く、自分と他人との間の境界が薄いことが多いHSC・HSPは、感情を閉じ込めやすかったり、刺激や苦痛、周囲の人の影響を受けやすかったりするためです。
この条件が保証されて自分らしく生きることができるからです。
ですから、上下関係のある社会や組織の中では、それを実現することはなかなか難しいと言えます。
そういう意味で、「HSC・HSPの、自分らしく生きようとする方向性」と「社会性」は相容れないのです。
「義務教育」は、子どもが学校に行く義務ではない
また、「社会性」の中で、直接的にわれわれに影響力を示すものとして、「義務教育」という言葉が存在します。
「義務教育」という言葉からは、「子どもが学校に行く義務」というふうに解釈してしまいそうになりがちですが、「義務教育」の『義務』とは、子どもが学校に行かなければならない義務ではないのです。
その点について詳しく記載された文献がありましたので、ご紹介したいと思います。
フリースクールの代表格である東京シューレさんの著書『子どもは家庭でじゅうぶん育つ』(東京シューレ出版)の中に、弁護士さんの解説で、次のように記載されていました。
義務教育の「義務」は、子どもの学ぶ権利を保障するおとなの側の義務の意味であって、子どもが学校に行く義務ではありません。親の就学義務も、子どもの学ぶ権利を親として援助する義務であり、登校を強制することが子どもの心を傷つけるような場合に、むりやり学校へ行かせる義務ではありません。(p47)
子どもの学ぶ権利は、学ぶ場と学ぶ方法を選択する自由を含んでいます。子どもにとって何が最善であるかを、親が子どもとともに考えて、選択すべきです。(p51)
(『子どもは家庭でじゅうぶん育つ』より引用)
実際には記述のように、「義務教育の義務とは、子どもの学ぶ権利を保障するおとなの側の義務の意味であって、子どもが学校に行く義務ではなく、親の就学義務も、子どもの学ぶ権利を親として援助する義務であり、登校を強制することが子どもの心を傷つけるような場合に、むりやり学校へ行かせる義務ではない」ということなのです。
中でも今回、特に強調しておきたいところは、HSCにとって、かなりの割合で「登校を強制することが子どもの心を傷つけるような場合」に当てはまっていくのではないか、というところです。
その理由について考えてみたいと思います。
それは、HSCに多い、次のような気質の特徴にあります。
HSCに多い、気質の特徴
- 集団に合わせることよりも、自分のペースで思索・行動することを好みます。
- 観察されたり、評価されたり、急かされたり、競争させられたりすることを嫌う傾向にあります。
- 外向性を重要視する学校や社会の中で、求められることを苦手に感じることが多く、人と比較したり、うまくいかなかったりした場合に自信を失いがちです。
- 人の集まる場所や騒がしいところが苦手です。誰かの大声や、誰かが怒鳴る声を耳にしたり、誰かが叱られているシーンを目にしたりするだけでつらいと言います。
- 1対1で話をするのを好みます。大勢の前でスピーチをすることや、大勢の人と会話をすることが苦手な傾向にあります。
- 親友がクラスの中に1人でもいると安心ですが、クラス替えで親友と離れなければならなくなったりすると、憂うつになってしまいます。
- 物事を始めたり、人の輪に加わったりするなど、行動を起こすのにも時間がかかります。
これは目の前の状況をじっくりと観察し、情報を深く処理(大丈夫かどうか確認)してから行動するためです。 - 刺激を受けすぎて、それに圧倒されると、落ち着きがなくなったり、話を聞けなくなったり、物事がうまくできなかったりします。恥ずかしさや刺激が多すぎて不安を感じる状況や環境では、冷静さや自制心を失って、その子が持っている本来の良さや力が発揮できなくなるのです。
- 想定外のことや突発的な出来事に対してパニックになってしまうことがあります。
- 自分と他人との間を隔てる「境界」が薄いことが多く、他人のネガティブな気持ちや感情の影響を受けやすい傾向にあります。
- 安心できていない人に、急に話しかけられたり、頭をなでられたり、顔や体を触られたり、抱きつかれたりすることを嫌がります。
- 嫌だと思っても、なかなか「No」が言えません。支配的な人や、あなたのためになると言って受け入れさせるような関わり方をしてくる人には特に、です。
- 先生がどのような人かの影響は大きいです。相性が良くない場合は、地獄だと言います。
- 子ども扱いにする人や権威を示す人、権力をふりかざす人が極端に苦手です。
- 自分の気質に合わないことに対して、ストレス反応(様々な形での行動や症状としての反応…HSCの場合「落ち着きがなくなる」「固まる」「泣きやすい」「駄々をこねる」「言葉遣いや態度が乱暴になる」「すぐにカッとなる」「ものに当たる」「引きこもる」、「発熱」「頭痛」「吐き気」「腹痛」「じんましん」など)が出やすい傾向にあります。
- 細かいことに気がついたり、些細な刺激にも敏感に反応したり、過剰に刺激や情報を受け止めたりするため、学校や職場での環境や人間関係から強い「ストレス」を感じてしまい、不適応を起こしやすい、 また、人の些細な言葉や態度に傷つきやすく、小さな出来事でも「トラウマ」となりやすいところがあります。
それらの気質への認識がHSCに関わる大人の人たちに共有され、慣れるまでのそれぞれに合ったやり方やペースが尊重されると安心ですが、
そうでない場合、
『どうして自分にはできないのだろう』、『どうして自分はほかの子と違うのだろう』
という思いが強まって、「自己否定感」や「劣等感」を抱えやすく、
さらには「トラウマ(心の傷)」まで抱えてしまうことがあります。
その「トラウマ」なのですが、
HSCの子どもさんたちの多くから、幼い頃に人手に預けられたことや、園や習い事に通わなければならなかったことなど、子どもさんの気持ちや意志とは関係なしに、母親から引き離されたという体験が「トラウマ」となって、それを引きずっているように感じられることがあります。
母子の分離不安が高まっている時期に、無理やり母親から引き離されるという体験をすると、それがトラウマとなって心に傷が残りやすく(「見捨てられ不安」が強まりやすく)、些細な変化や新しい人・場面などに対して警戒心が強く過剰に敏感であったり、多動で衝動的であったり、後追いなどの母親にしがみつこうとする行動をとったり、母親を困らせることをしたり(拒否したり、抵抗したり、怒りをぶつけたり)するなど、不安定な愛着パターンを示しやすくなるのです。
(もちろん、愛着関係における傷は回復可能で、子どもさんの愛着の傷を癒すには、安心感に包まれることです。
子どもさんが必要とされる限り、お母さんができるだけ子どもさんのそばにいてあげて、子どもさんの気持ちや要求・欲求に応えてあげようとするなど(これは決して甘やかしではないのです)、お母さんの安定した愛着に恵まれるようになれば、心の傷は癒され、情緒的に落ち着いていくということです。詳しくは2018-02-23の記事、『【保育園・託児所・親以外の人】に預けて大丈夫じゃない子とは?』をご参照下さい )
敏感な時期は、5歳頃までと言われていますが、HSCの場合はケースバイケースでその時の状況やその子の状態によって慎重に見極めていく必要があるのではないかと思われます。
この時の愛着の傷は、何もなされずに放置されたままだと、子どもの時だけではなく、大人になってからも「不安定な愛着スタイル」として引きずっていることが多く、夫婦関係や子育てなど、自身の人生において暗い影を落とすことにもなりかねません。
「視覚空間型」は学校では特性を活かせない
また、そのほかの理由として、
2018-03-10の『HSCにとっての学校教育(情報処理という特性の視点から)』という記事の中でお伝えしていますが、
HSCである子どもさんたちと関わった中で感じられることは、「視覚空間型」という情報処理の特性を持った子どもさんが結構な割合で存在するということです。
その「視覚空間型」という特性を持った子どもさんにとって、現行の教育制度が、彼らの特性を活かせず、自己否定感や劣等感ばかりを強めてしまいやすいものとなっているということも挙げられます。
(詳しくは2018-03-10の記事、『HSCにとっての学校教育(情報処理という特性の視点から)』をご参照下さい )
このように、HSCの気質と学校という環境とが、あまりにも相容れないことが多すぎるのです。
どうして学校に行かないといけないのか
では、どうして子どもを学校に行かせるのでしょうか?
「早く社会性や適応能力を身につけさせたい」、
「まわりの子と比較して遅れをとりたくない」、
「家の事情や仕事の関係上預かってもらえると助かる」など、
動機はいくつかあると思います。
「どうして学校に行かないといけないの?」と、子どもさんから問われたら、どのようにお答えになられるでしょうか?
「世の中を渡っていく上で恥かしくないように」とか、
「将来のために社会性を身につけておくことが大事」だとか、
「社会の中に入っていくための基本的な知識を身につけることが必要」、
「集団に馴染めるように」
「社会に適応し、誰からも認められる人間になることは、人として“あるべき姿”」
などの理由に、
「だから、学校に行くことは必要なこと。当たり前のこと。学校に行くのは“あなたのため”、“将来のため”」だと。
一般には、このように考えることが多いのではないでしょうか。
しかし、すべての子に当てはめないほうが良いと考えるのが賢明でしょう。
HSCと不登校
私は、HSCという概念を知って、「不登校」という言葉の存在自体に疑問を感じるようになりました。
なぜなら、前述したようなHSC気質・特性を持った子が、学校環境や現行の教育システムに対して不適応を起こしても何ら不思議ではないからです。
現在も至るところで、学校に戻すことを前提としたカウンセリングやサポートが主流に行われていると思われます。
それは、子どもさんの不登校や行き渋りなどといった問題に直面した時、多くの親御さんは、担任の先生や世間の目、そして子どもさんの勉強や社会性の遅れといった将来のこと、などが気になり、「どうして学校へ行きたくないのか」よりも、「どうしたら学校へ行ってくれるか」の方に意識が向けられるためです。
また、「ほかの子に遅れをとるのではないか」「先生に迷惑をかけてはいけない」「しつけができていないなど、世間の目が気になる」などから親御さんが追い詰められて、子どもさんの気持ちや感情を受け止めきれず、何とか学校に行かせなくてはと、子どもさんに圧力や恐怖を与えてしまうことで、子どもさんに「トラウマ」を負わせてしまうことになりかねません。
実際に、ご自身の親や親族、世間の目や意見には、厳しいものもあり、「学校へ行かせることが当たり前、学校へ行かせることは子どものため」「行かないのはわがままだ、甘えだ」、などの価値観や正論の押しつけによって、親御さんや子どもさんが罪悪感や劣等感にさいなまれて追い込まれているケースが非常に多いのです。
しかしHSCにとって、「学校に行けないこと」「学校に行きたくないこと」は、気質に合わないことによる拒否反応であったり、本来の気質・特性が活かされず、やらされることが多く自分のペースで「自発的」に「主体性」をもって自分らしく生きることができなくなった結果であるということ。
特に後者の場合は、「社会性」や「その子にとっての過剰な適応能力」を求められた結果、期待に応えようと「頑張ってきたことに対する息切れ」や「集団のペースに合わせて生きることへの限界」を意味しているものではないでしょうか。
以前HSCの子が、『学校に行くと、心が死ぬ』と言っていたのが、印象的でした。
このブログ、『あの日のボクへ』の中で、すでに私の生い立ちについてはお伝えしていることですが、
私も中3の時、学校に行けなくなった経験がありますので、その気持ちがよくわかるのです。気質と合わないから心がくたびれてくるのですね。
自分が存在する意味や生きている価値が無くなるわけですから、「なぜボクは、この世に生まれてきたのだろう」と何度も何度も自問自答するのです。
それは、HSCを「社会の常識の枠」に当てはめさせようとするから、「主体性」が押し潰されて、心が死んだようになってしまうのではないでしょうか。
ですから私は、
子どもにとっての「学ぶ場」とは、「自由意思による選択」と「主体性」が保障された環境であって、
子どもにとっての「学習」とは、そのような環境で、その子の好奇心に基づいて、「自発的」「主体的」に取り組まれ、その子の自立心・独立心が養われていくものであってほしいと考えるのです。
そして、HSCという概念を知ったからこそ、学校以外の選択肢を準備しておくことと、HSCの気質・特性を活かす道を時間をかけて子どもと共に探していくことがとても大切だと思っています。
生きる価値を家庭の中で
また私は、精神科医という仕事上、学校や職場に行けなくなった方々や引きこもりの状態の方々に関わってきました。
その方々の特徴を振り返ってみると、結構な割合で、HSC・HSPであったように思われるのです。
そこで、どうしても気になってしまうところがあるのです。
それは、
その方々が、外(社会)ではなく、家の中にこだわっているように見えてしまうというところです。
その方々は、家庭の中で生きる価値を見つけようとしているのではないかと感じられるのです。
これは、“すべての”というのではありませんが、結構な割合のHSC・HSPが、「社会性」を示すような、集団をつくり他人と関わって生活しようとする本能的性質・傾向を持つ人間ではなく、
安心できる特定の人(家族)との関係において、共感や共有を重視するといったより深い親密性や温かい心の交流を求め、その関係性の中から存在意義を見出そうとする、本能的性質・傾向を持つ人間だからなのではないかと強く思うのです。
そのように考えると、不登校の子どもさんに対して、学校に戻すことを前提としたカウンセリングやサポートが主流に行われているのと同様に、医療においても、気質的に「社会性」を求めていない人に対して、社会に戻す(社会に適応していく)という考えが果たして正しいことなのか、
“うつ”を繰り返したり、“社会恐怖(社会不安障害)”という疾患が存在したりするのは、「子ども時代に受けたトラウマの影響」や「対人関係において無意識的な関わり方のもととなっている親や身内との関係性の影響」、そして「本人のものの考え方(信条)の影響」というのもありますが、気質が外向性を重要視する社会に合っていないことの影響も大きくないか、・・・・・。
中には現行の医療、例えば、症状を薬で抑える薬物療法を嫌がったり、思考で認知を変えることを目的とした認知行動療法などでは満足できない人が存在します。
「自分とは何か」「何のために生まれてきたのか」を問い続けているような方々です。
それは、気質が求めていない環境から、離れるという選択肢がない中で、自分を誤魔化したり、言い聞かせたり、自分の感情や考え方をコントロールしようとすることに、心が納得していないからなのではないか、と感じられてくるのです。
決める権利は、ほかの誰でもなく「自分(その子)」にある
多数派向けの外向的な「社会性」が求められる社会の中で、HSC・HSPという生まれ持った自分の気質を理解して、自分らしくラクに生きられる方法を身につけられるのではないか?
これはよくある問いです。
この問いに深く向き合った時、多くのHSC・HSPにとって欠かせないと言える「ありのまま感じ、ありのままに表現する」という意味の「主体性」が集団生活を行う社会の中で果たして受け入れられるのか? という問題が浮かびます。
自分をよく知って、適応する術(すべ)を身につけて社会に身を置くことを選ぶか、
それとも、自分(その子)が本当に必要とする環境に身を置くことを選ぶか、
その選択は、自分以外の人がすることではない。
本来、本人以外の人がすることではないその選択を、自分以外の人から、“あなたのために”という名目で、押しつけられた時、
本質を見極めるHSC・HSPは、たとえ言語化できていなくても、どこかでそれに気づき、違和感を抱えるのかもしれません。
家庭で収入を得ながら生きる価値を高められる生き方の構築
ですから私は、子どもの頃HSCで現在HSPである自分や、仕事で関わってきたHSC・HSPと思われる方々が、トラウマや生きづらさで苦しんできたこと、回復がとても大変なことを知っているからこそ、集団生活(社会性)に不適応(拒絶)を起こしている子(人)は、家庭で収入を得ながら生きる価値を高められる方法を早いうちから構築していったほうが良いのではないか、と考えるのです。
以前は、「社会性」を身につけて組織の中で、安定した収入を得ることに価値がある時代だったわけですが、例えば、良い大学に進学することや、有名な企業や組織に就職することの価値が薄らいできています。
そのような企業や組織に頼ることなく、家庭で収入を得ることを可能にしたのが、ITです。
実際にIT技術の飛躍的な進歩によって、労働者の働き方が職場から家庭へとの変化を可能にしたのです。
かくいう私はITに精通していません。むしろ苦手ですが、今の自分が自分らしく生きて行くためには欠かせないものになっています。
その意味で私は、学校や会社にこだわるよりも、自分に合った学習の場・学習の方法を見つけ、インターネットを通じて安定した収入を得ることなどを目標に、ITの知識と技術を身につけることで、自分らしく生きるための土台を築くことの方がむしろ健康で建設的なのではないかと考えています。
ただしそれには、その価値が家族の中で共有され、かつ家庭が『安心の基地』になっているということが前提です。
つまり、子どもさんが安心して過ごすことができる環境が整っているということが大事なのです。
それは家族間に葛藤がなく、感じたこと思ったことを自由に表現することが許され、「自分は大丈夫」「何とかなる」と思うことができる安心感と、困った時は助けに応じてもらえる、味方になってもらえると信じることができる信頼感を備えた基地のことです。
さいごに
時代は変わり、家族の在り方や環境、子育ての仕方も、私の子どもの頃とはだいぶ違いが出てきています。それに伴って、前の時代の「当たり前」のことで、だんだん通用しなくなっているものが出てきている、ということも事実です。
「当たり前」を「当たり前」と思い続けて、それに合わせようとしたり、それを守ろうとしたりすることで、いち早く生きづらさを感じてしまうのも、敏感な気質を持った子どもさんなのです。
だからこそ、学ぶ場や学ぶ方法、働く場や働く方法に変革が必要です。
一部の人の中には、既存の考えに縛られずに、時代の流れをいち早く読み取り、「自分の足で歩き、自分で行き先を決める生き方」をすでに確立されているなど、先見の明に優れた方もいらっしゃるようです。
その意味で、子どもさんが自発的な意志やペースで、自身の身の丈(気質)に合った方法や環境を選択していくことが大切だと思われます。
そしてそのような環境を、親御さんが確信を持って提供できることこそが、子どもさんの個性や感受性(感性)を花開かせる土台だと考えています。
さいごまでお読みくださりありがとうございました。
参考文献
『子どもは家庭でじゅうぶん育つ 不登校、ホームエデュケーションと出会う』東京シューレ/著(東京シューレ出版)2006
『愛着障害 子ども時代を引きずる人々』岡田尊司/著 (光文社新書)2011
『発達障害と呼ばないで』岡田尊司/著(幻冬舎新書)2012
『ひといちばい敏感な子』エレイン・N・アーロン/著(1万年堂出版)2015