第3章:最終(さいしゅう)の12話となりました。
最終の今日は「幸せ」について意識(いしき)を深(ふか)め、「本当の幸せへの道」を選んで歩くきっかけになるような話にしようと思いました。
どうぞよろしくお願いします。
「幸せ」とは
あなたにとって「幸せ」とは何ですか?
そう聞かれたら人はそれぞれ何と答えるでしょう。
「幸せ」・・・・・・・。
立ち止まって考える・・・・・、
胸(むね)なのか、お腹(なか)なのか、そのへんで何かを感じる・・・?
どういう気持ちや考えが浮かんできますか?
「薄(うす)れて消える幸せ」と「続く幸せ」
人は、何かがうまくいったり、希望(きぼう)が叶(かな)うなど、嬉(うれ)しい気持ちになったとき「幸せ!」と思う。
何かから解放(かいほう)されてリラックスできた時なども「幸せ」と感じられるかもしれません。
「嬉しい」という喜(よろこ)び、「最高(さいこう)!」と思う感激(かんげき)、「気持ちいい」と思う感覚(かんかく)によって「幸福感(こうふくかん)」が感じられた時に「幸せ」という言葉が用いられる。
これが「幸せ」の中のひとつだと思います。
さて、この「幸せ」ですが、ずっといつまでも続くでしょうか。
例えば「誕生日(たんじょうび)にずっと欲(ほ)しかったものをプレゼントしてもらった! 嬉しい! 幸せ」といった感動(かんどう)は、その時だけで、だんだん薄(うす)れてきますね。
そのほかにも
子どもの頃
「賞(しょう)をとった」
「学級委員(がっきゅういいん)に推薦(すいせん)された」
「いい成績(せいせき)をのこした」
「有名(ゆうめい)な学校に通った」
大人になって
「一流(いちりゅう)の企業(きぎょう)・会社(かいしゃ)に入った」
「社会的(しゃかいてき)な評価(ひょうか)の高い職業(しょくぎょう)につけた」
「人の役(やく)に立っている」
「お金をかせぐようになった」
これらは必ずしも、その人のその後の人生における「幸せ」に直結するものではないのです。
実は冒頭(ぼうとう)での問(と)い
「あなたにとって『幸せ』とは何ですか?」
は、このような、その時その時の幸せのことではなく、どちらかというと深い、土台(どだい)のような部分(ぶぶん)で感じるところの「幸せ」についての答えを求(もと)めたものなのです。
表面的でナイーブなものではなく、もっと本質的な深いところで「幸せ」について考えてみようというものです。
本当に「幸せ」?
カウンセリングをうけられる方(かた)は、ご自身の内面(ないめん)を見つめていらっしゃる方、あるいは、見つめようとする方向に傾(かたむ)きつつある方がほとんどですので、「幸せ」についても深く、誠実(せいじつ)にとらえようとされます。
そのためその方々は、ご自身にとって重要(じゅうよう)な人との関(かか)わりの中で、「幸せ」について違和感(いわかん)を感じることが多々あります。
よく耳にするのが、お母さんとの関わりの中で出てくる「幸せ」という言葉への違和感です。
数名(すうめい)の方からこのようなお話を聞きました。
「こんなにしてもらって幸せ」
「旅行(りょこう)できて幸せ」
「美味(おい)しいもの食べて幸せ」
「こうしている時が一番幸せ」
など、お母さんの「~が幸せ」と言う言葉に、胸に引っ掛(か)かりを覚(おぼ)える、といったことを表現(ひょうげん)されるのです。
少し掘(ほ)り下げて尋(たず)ねてみると、
「『幸せ』って簡単(かんたん)に言うけど、本当に幸せそうには見えない」
「本当の幸せを知らない人が、気軽(きがる)に幸せという言葉を口にしないでほしい」
「娘の私が幸せじゃないのにどうして『幸せ』なんて言えるの?」
「母は不幸(ふこう)だった。今も不幸。本当の幸せを求めてほしい」
などの言葉があふれてくるのです。
おわかりでしょうか。
お母さんが言葉にした「幸せ」は、その時限りの薄れて消える幸せ。
子ども側の方(ほう)がお母さんに見いだせなかった「幸せ」とは、お母さんの深い土台の部分の
「幸せ」
だったのですね。
子どもはお母さんの幸せを願(ねが)う存在(そんざい)
子ども側の方がお母さんに感じられなかった「本当の幸せ」ですが・・・
お母さんはお母さんの人生なのに、どうして子ども側(がわ)の方がお母さんの「幸せ」を気にするのでしょう。
お母さんからすると
「私のことはいいからあなたが幸せになればいいじゃない」
という気持ちかもしれません。
「子どもがお母さんの幸せを願うこと」について書こうとすると、とても深く長くなるのでここではひとつの理由についてだけ話そうと思います。
人は親の支(ささ)えがなければ生きられない子ども時代、お母さんの心の状態の良し悪しの影響(えいきょう)をそのままうけて生活しなければなりませんでした。
これが理由のひとつなのです。
- 自分を犠牲(ぎせい)にして、苦労(くろう)して、幸せそうに見えない
- 我慢(がまん)ばかりで楽(たの)しむことや笑顔(えがお)がない
- そとでは、つくり笑顔
- うちでは、不機嫌(ふきげん)でイライラして、いつも心にゆとりがない
- 心がない、心に穴(あな)が開いてるみたい。
お母さんがそうだったら、子どもさん側にはそれが自分のことのように感じられたりします。
「つらそうなお母さんを見るのはつらい」
「お母さんのことかわいそうなんて思いたくない」
と思います。
そしてそれ以上に、
「お母さんがそうじゃなかったら、お母さんの心が満たされて幸せだったら、もっとお母さんは私を見て、笑って、優(やさ)しい言葉をかけてくれて、大切な時間を一緒に過ごせるんじゃないか・・・」
と無意識(むいしき)に考え、それを願うのです。
しかし子どもの頃は、その方法がわかりません。
本当は、子どもである自分に意識(いしき)と愛情(あいじょう)を存分(ぞんぶん)に向けることができないのなら、それができるように、お母さんの「幸せ」を邪魔(じゃま)しているものの存在を取り払(はら)う努力(どりょく)をしてほしい・・・それが子どもの言葉にできない心の声なのです。
その名残(なごり)で、大人になってもお母さんに「本当の幸せ」がないと、自分も幸せじゃない気がするのですね。
もちろん母親と子どもはそれぞれの人格(じんかく)を持った別個(べっこ)の存在なので、母親が幸せでなくても子どもが幸せを求め、それを得ることができないはずはありません。
では反対はどうでしょう。
子どもさんが
「親との間での心の傷やわだかまりが消えず、幸せじゃない」
「お母さんは本当の幸せを求めていない、幸せじゃないのがわかる」
というのに、お母さんが
「私は幸せ」
と言ったら・・・。
前述のような違和感や言葉が湧(わ)いてくるのですね。
「本当の幸せ」とは
改(あらた)めて「本当の幸せ」とは・・・。
少なくとも、自分がつくった大切な家族が
「この家に生まれて本当によかった。お父さんとお母さんの子どもに生まれて本当によかった」
「この人と夫婦になって本当に良かった」
と思えなければ、そこに「本当の幸せ」があるとは言い難(がた)いのではないかと思います。
心にウソはつけない
ボクは医者になってたくさんのお金をもらっていました。
お金がたくさんあること、自由に使えること、欲しいものを手に入れることができることで「幸せ」と感じられる瞬間(しゅんかん)があったのはたしかです。
しかしそれは、刹那的(せつなてき:その瞬間⦅しゅんかん⦆だけ充実⦅じゅうじつ⦆させて生きようとするさま)な幸せであって、親の都合や親の常識(じょうしき)の枠(わく)に合わせれば喜んでもらえる・合わせなければ喜んでもらえない「条件(じょうけん)つきの愛」というコントロール(支配)を本当の愛情と錯覚(さっかく)していたボクは、『満たされることのない空虚感(くうきょかん)』の穴埋めを、親以外の人に求めたり、お金や高級品(こうきゅうひん)・贅沢品(ぜいたくひん)といった物質的(ぶっしつてき)な代用品(だいようひん)で補(おぎな)おうとしていた、ということが今は手に取るようにわかるのです。
その意味でボクの深い土台の部分は、とても長い間ちっとも幸せじゃないと感じていて、それが不安やさまざまな症状というかたちになって表れていたのだと思います。
誰かから「心の持ちよう」と言われても、
誰かの力強い言葉に触れてその時は気持ちよくなれても、
それは「言い聞かせ」や「自分の心をコントロールすること」と一緒で、誤魔化(ごまか)すことができないボクにとっては、
「心にウソはつけない」。
それが心の事実(じじつ)だったのです。
「本当の幸せ」の障害(しょうがい)になっているもの
ボクの深い土台の部分が「本当の幸せ」を感じられるようになってきて思うのは、
「ずいぶんたくさん手放(てばな)してきたなぁ」
ということです。
何を手放してきたかはこのブログで語り続けてきましたが、中には命くらい大事なものと思い込んでいたものもありました。
高収入(こうしゅうにゅう)、ステータス(社会的な地位⦅しゃかいてきなちい⦆の高いもの)はその代表(だいひょう)でしょうし、「人からの評価」や「医者でなければ価値がないという植えつけられた価値観」もそうでした。
表面的に見ると、高収入や医者というステータスは、「幸せ」に見えそうですが、ボクにとってそれは逆に「本当の幸せ」の障害になっていたのです。
ボクの深い土台の部分は、そのことを知っていて、
「お金で得ていた物質的な充足(じゅうそく)」と
「贅沢やステータスで得ていた優越感」
によって、『心の空虚』を誤魔化そうとすればするほど、
「本当の自分」「本当の幸せ」が遠ざかっていっていることを、不安や不眠、気分の落ち込みなどの症状で教えてくれていたのだと思うのです。
これらを手放した、というか手放すことになってようやく、ボクの深い土台の部分に安心できるような温かさがもたらされてきたように感じます。
それには
「自分が自分であること」
「普通の常識(じょうしき)とは違っても自分たち家族のペースや意志で選び、決めることに自信と責任が持てること」
そして
ボクたち「家族との温(あたた)かい心の交流(こうりゅう)」
が大きいと感じています。
それは、ボクが小さい頃から求めても手に入らなかったものでした。
生活力
ただし、そこに生活の基礎(きそ)となる「収入(しゅうにゅう)」がないと、どうしても心は落ち着かないと思います。
これは重要(じゅうよう)な課題(かだい)です。
ボクは勤務(きんむ)する、つまり雇(やと)われることを手放したことで、「収入」が極端(きょくたん)すぎるくらい減(へ)りました。
なので、「お金と幸せは別(べつ)」という考えは確かにそうだと思うのですが、やはりそれはバランスで、生活力(せいかつりょく)としてのお金を稼(かせ)ぐことはとても大事、というのが実感(じっかん)です。
このブログでは、組織(そしき)や企業(きぎょう)に雇われないフリーランスなどの生き方について提案(ていあん)しているだけに、
「生まれ持った気質(きしつ:にんげんがそれぞれにもつ、心やからだのせいしつ)・特性(とくせい:その人だけにとくべつにそなわっているせいしつ)を開花(かいか)させる」
「好きなことに没頭(ぼっとう)し、それを仕事にする」
といったことに現実的(げんじつてき)に挑戦(ちょうせん)する必要があると感じています。
さいごに
自分(自分がつくった家族)にとって、幸せとは何なのか
幸せになるために、何を大切にしていくのか
大切にする何かを優先(ゆうせん)することによって、失われるもの(手放すべき何かが出てくること)に覚悟(かくご)を持つ勇気(ゆうき)があるか、ということ
自分にとってのそれが何かを考え、それを得るために、自分のために行動する時、人はすでに「本当の幸せへの道」を歩き始めているのではないかと思います。
学校のことで悩みを抱えている子どもさん、お父さん・お母さんの道しるべになれればと思いながら書いてきた第3章、これで終了(しゅうりょう)です。
迷(まよ)った時、答えがわからない時、心が折(お)れそうな時、ここに寄り添い励(はげ)ます言葉があったことを思い出してもらえたらと願います。
さいごまでお読み下さりありがとうございました。